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弘前城 散策

2010年6月30日
2010年 「東海道・陸奥一人旅」 陸奥(みちのく)編

弘前公園を散策して・・・


弘前公園有料区域の本丸に有る弘前城天守です。

天守(初代)
最初の天守は弘前藩2代藩主津軽信枚により慶長14年(1609年)頃に本丸南西隅に建てられた5重の建物である。
内部6階と推定される建築は僅か4万7000石の大名としては破格の巨大さで東北地方では会津若松城天守に次ぐものであった。
しかし、完成から僅か20年に満たない寛永4年(1627年)に落雷で炎上し、内部の火薬に引火して大爆発を起こして焼失した。
この天守は再建されることなく、跡には本丸未申櫓が建てられた。
石垣も大きく改変されかつての痕跡は存在していない。

天守(御三階櫓)
天守(本丸外側より)本丸唯一の現存建築である天守は寛永4年(1627年)に焼失した5重天守の代用として文化7年(1810年)から本丸辰巳櫓を改修し文化8年(1811年)に完成した層塔型3重3階の建物である。
高さは約14.4メートルで現存する3重天守の中で最も低い。
往時は幕府への配慮から天守とは見なさず、櫓(御三階櫓)として扱われていたが、「事実上の天守」としての役割を持ち現在は書籍等の多くで天守として扱われている。
昭和24年(1949年)に松前城天守が焼失したため、現在最も北に位置する事実上の現存天守でもある。

ウィキペディア参照

弘前城天守は今現在は史料館となり、江戸時代後期に築かれた、全国に現存する数少ない天守の一つで、藩政時代の史資料を展示しているとの事ですので見学します!


















色々な昔の資料が展示して有りました。

その中で一番興味を持ったのが・・・


津軽藩士 赤石愛太郎 敵討ち遺品

嘉永(かえい)5年赤石愛太郎という名の弘前藩士の母親が東津軽群油川村(現青森市)で島川吉之進に殺された。
愛太郎は母親の仇討ちを心に誓い津軽藩士山田登に剣術を学んだ。
剣術を学びながら津軽藩へ母親の仇討ちをする為に藩を出ることを何度も訴えるが断られ月日が過ぎる・・・
それから数年の月日が経ち母親を殺した島川吉之進が偽名を使って水戸へ隠れていることを突き止める。
再度、藩に仇討ちを訴えたが断られ藩の規律を破り出奔。
嘉永7年6月19日に水戸城下で水戸藩の藤田東湖らの助力をえて母親の仇討ちを成し遂げる。
仇討ちを終えて江戸へ誤送される途中に自害してしまう。
享年二六歳
何故自害したのかは
「大事になり藩に迷惑がかかる」
「長年願っていた母親の仇討ちを成し遂げて母親の元へ逝った」
などと言われています。
※上記は資料を読んで記憶で書きましたので多少の違いが有るかもしれませんがご了承ください。


母の戒名や当時愛太郎が上役へ差し出した召捕り願い書


仇討ちに使ったとされる刀


赤石愛太郎母親仇討ち事件は江戸でも大きいニュースとなりかわら版が出回ったとの事です。

凄いお話なのですがネットで検索しても資料がほとんど有りませんでした・・・(残念)


本丸


武徳殿休憩所
明治44年に演武場として建設され、その後休憩所として保存修理したもので、物産の販売や喫茶コーナーがあり、また北の郭で発掘された出土品も展示しています。




短い時間でしたが歴史に触れ合えて貴重な時間でした。

弘前市HP参照