トランスポーター・キャンピングカー専門店 トヨタハイエース オグショー北海道代理店

日本最北端の一人旅 「稚内副港市場」

2010年7月14日
ハイエースフェアin旭川トヨペット稚内店終了後に・・・
約18年ぶりの「日本最北端の一人旅」へ


約2時間程の稚内散策を終えて・・・







稚内副港市場へ
ここには、観光案内、温泉、レストラン、居酒屋、市場、松坂大輔スタジアムなどなど色々なお店が集合した複合施設でした。
詳しくは稚内副港市場HPをご覧ください。

車を駐車して稚内副港市場1Fを散策・・・


北海道第1号!!
みなとオアシスわっかない


施設内はフリースペースが有り、車中泊をしている人やお風呂上りの人がビールやジュースを飲んで楽しんでいました。


観光情報コーナーには








宗谷管内やサハリン(旧樺太)の観光情報や歴史の資料が多数展示されています。


樺太ノスタルジーにはサハリン(旧樺太)にあった旧豊原中学校の教室を再現されていました。


教室内には樺太の情報も多数展示。


稚内ノスタルジーには稚内の昭和をリアルに再現した町並みが有りました。










ALWAYS 三丁目の夕日に出てきそうな街並でした!


港ノスタルジーにはかつての樺太への入り口、稚内港駅舎を再現。


色々な昔の資料も多数展示されています。


木製の改札口


ダルマストーブ


ここでマメ知識!
■国内初のストーブが宗谷で誕生
製造の発端となったのは、道北の宗谷(そうや)地方へ転勤を実際に命じられた梨本弥五郎(なしもとやごろう)という人。そしてもう一人、武田斐三郎(たけだあやさぶろう)という人。この人は五稜郭設計で有名な学者。
梨本は、宗谷へ旅立つに際し、寒さの厳しさが不安の種でした。それでストーブのことを知っていた武田にストーブを造ってもらいたい旨、箱館奉行に申し出ました。武田は箱館奉行の村垣淡路守(むらがきあわじのかみ)の命令により、ストーブの視察に出かけ設計し、箱館の職人源吉が製造を引き受け、鋳物職人の孫左衛門、及び瓦師利三郎が製造を担当しました。
職人は製造にてこずりました。道内各地に送るために、22台の製造が必要だったにもかかわらず、作業はなかなか進まなかったようです。しかもようやく完成したストーブも、冬のシケで箱館をたつことができません。
冬も本番に入る時期で、すでに家族とともに宗谷に移動していた梨本はすぐに必要だったのですが、箱館からストーブが届かないのでは困り物です。そこで、地元宗谷のアイヌの鍛冶職人景蔵に製造を頼むことにし、以後ストーブが各地に広まっていきました。
北海道ぷちがいど参照


すでに市場は閉まっていたのですが、ここだけで宗谷地方の観光、歴史、買物の全てを堪能できる施設だと思います。

約1時間ほどの散策でしたが一番心に残っている資料が・・・


「九人の乙女」の物語
真岡町(現ホルムスク)は、人口約2万人で樺太西海岸南部に位置し、北海道の各港との定期船も絶えなかった平和な港町でした。
昭和16年(1941)太平洋戦争(第二次世界大戦)に突入することになりましたが、日ソ中立条約(領土不可侵・中立維持を約束した条約)が締結されていたこともあり、国境での紛争はほとんどありませんでした。

しかし、昭和20年(1945)8月9日の朝、樺太国境警察がソ連軍の不意の攻撃を受け、40年間にわたる国境の静寂が破られたのです。
ソ連軍による進撃・砲撃は、国境を接する町から次第にその範囲を拡げ戦況は悪化する一方で、樺太兵団は、中央国境を突破するソ連軍を側面から支援する部隊が真岡地区にも上陸するものと判断、この地区の守りを固めようと努力を続けていました。
この非常事態に、老人、子供、女性、病人等を優先して島民の緊急疎開が開始されました。

そして8月16日、上田・真岡郵便局長は上司から
「女子職員は全員引き揚げるよう、そのため業務が一時停止しても止むを得ない」
との命令を受けました。
ほっと安心すると同時に、皆その知らせを喜んでくれるだろうと思っていた上田局長でしたが、意外な事に局員からは
「全員、疎開せず局にとどまると血書嘆願する用意をしている」
と告げられました。
上田局長はソ連軍の進駐後起こるであろう悲惨な状況を話し説得したが応じてもらえなかったといいます。
きっと彼女らは交換業務の重要性を認識し、その責任感・使命感を健気(けなげ)なほど感じていたからこそ、このような覚悟をしたものなのでしょう。
友人や知人が次々と北海道へ向けて避難を始める中で、多くの女子職員が職場に踏みとどまり交換作業に従事していました。

そして、迎えた8月20日の朝6時頃、真岡は身にまといつくような濃霧でした。
霧の中にぼんやりと見える埠頭倉庫のトタン屋根は霧にぬれてにぶく光り、疎開する島民を北海道へ輸送する船や北部から難を逃れてきた漁船等がぎっしりと岸壁についていました。
臨海地区を手中に収めたソ連軍は、続いて山の手に向かって戦線を拡大し、各所に砲撃による火の手が上がり、黒煙がようやく霧の流れた空を覆い、火の粉が風下一帯に降り注ぎました。最後の時が迫った恐怖から人々は裏山の芋畑やクマザサの茂る野をはうようにして尾根を越え、ある者は鉄道のレール伝いに逃げまどいました。
真岡郵便局では早朝5時半過ぎ、真岡の北約8kmの幌泊から、「ソ連の軍艦が方向を変え、真岡に向かった」との連絡を受けた高石ミキ電話主事補が、仮眠中の宿直者全員を交換台に着席させ、関係方面への緊急連絡を行うとともに郵便局長にこの旨、電話で報告を行いました。
郵便局は場所的にも戦火に巻き込まれる位置にあり、交換室にも弾丸が飛び込むなど、極めて短時間のうちに危機は身近に迫っていました。
しかし、緊急を告げる電話回線を守り、避難する町民のため、またこれらの状況を各地に連絡するため、最後まで職務を遂行したのです。

同じ樺太にある泊居郵便局長は、当日の状況をこう話しています。
午前6時30分頃、渡辺照さんが、
『今、皆で自決します』
と知らせてきたので
『死んではいけない。絶対毒を飲んではいけない。生きるんだ。白いものはないか、手拭いでもいい、白い布を入口に出しておくんだ』
と繰り返し説いたが及ばなかった。
ひときわ激しい銃砲声の中で、やっと
『高石さんはもう死んでしまいました。交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら』
という渡辺さんの声が聞き取れた。
自分と居合わせた交換手達は声を上げて泣いた。
誰かが、真岡と渡辺さんの名を呼んだが二度と応答はなかった」と語っています。

高石さんの知らせで自らも郵便局にかけつける途中、腕に銃弾を受けてソ連兵に連行されてしまった真岡郵便局長は、数日後ソ連軍の将校の許可で局内に立ち入ることができました。
その時の様子を、同局長は
「9人は白っぽい制服にモンペをはいており、服装はみじんも乱れていなかった。また、交換台には生々しい数発の弾痕があった。
さらに、睡眠薬の空き箱があったことは見苦しくないようにするため、睡眠薬を飲んだあと、青酸カリを飲んだのであろうが、息絶えるまで送話器に向かって呼びかけていたようだ。」
と語っています。

彼女達は、ブレストを耳にプラグを手に握りしめ、最後まで他局からの呼び出しに応ずるために交換台にしがみついたまま倒れていました。
遺体の確認に立ち会ったソ連軍将校も、悲惨な室内の状況を目の前にして、胸で十字架をきって黙祷したといわれています。

当日交換業務を行っていた9人の中で最年長だった高石ミキさんは、殉職の日の前日、北海道に疎開する母を港で見送った時、“いざとなったらこれがあるから大丈夫”と胸をたたいて見せました。
それが青酸カリだと知った母親は、顔色を変えたといいます。
それほど、明るくて物事をはきはき言う人でした。

志賀春代さんは、妹と2人で同じ職場に勤務しており、日頃から“いざというときは、自分が職場を死守するから、生きて内地に帰りなさい”と妹に言っていた責任感と気の強い人で、当日も非番にも関わらず、急を知って局に駆けつけた程で、交換技能も抜群の人でした。

殉職した9名の交換手達はいずれも10代の後半から20代前半の若い女性達です。
通信確保の任務を果たし、最後の言葉を残して9人の乙女達は、若き青春に訣別して行ったのです。



今回このBLOGを書いている当日の北海道新聞に
『映画「氷雪の門」36年ぶりに全国公開 樺太・真岡での集団自決描く』
終戦直後の樺太・真岡(ホルムスク)で旧ソ連軍の砲火が迫る中、郵便局に残り、自ら命を絶った9人の女性電話交換手を描いた1974年制作の映画「樺太1945年夏 氷雪の門」(北海道新聞社など後援)が、17日の東京を皮切りに札幌など全国で公開される。36年前、道内では上映されたものの全国的な公開は中止された作品で、関係者の熱意でスクリーンに帰ってきた。<どうしんウェブ参照>
とインターネット上では説明していますが北海道新聞の紙面には「当時のソ連政府による圧力により公開が中止された」と書かれています。

BLOGを書いている当日の新聞にこのような記事が掲載されていたのには何か運命的な感じがする作品ですので映画を見てみたいと思います。
北海道は空襲等も少なく戦争被害が他の地域より少ないような歴史観でしたが、もう一度北海道の歴史を振り返ようと痛感しました。