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日本最北端の一人旅 「宗谷の歴史」

2010年7月15日
ハイエースフェアin旭川トヨペット稚内店終了後に・・・
約18年ぶりの「日本最北端の一人旅」


宗谷丘陵のドライブも終えて・・・


間宮林蔵渡樺出港の地へ

間宮林蔵の銅像は宗谷岬に有り、色々な資料は稚内副港市場に展示して有りました。

■間宮林蔵(まみやりんぞう)
世界地図にただ一人日本人の名を残した探検家です。
1805 年にノシャップ岬にロシア人が上陸するという事件があり、幕府(ばくふ)は樺太を調べることに力を入れました。
それまでも調べていたのですが、知られていないことも多かったため、 1808 年、幕府は間宮林蔵と松田伝十郎(まつだでんじゅうろう)の二人に樺太へ行くように伝えました。
かくして 1808年4月13日に林蔵は伊能忠敬(いのうただたか)からもらった正しい地図を作るための羅針盤という道具を持って、伝十郎とともに宗谷(そうや)から出発しました。
樺太の一番南から二手にわかれて、林蔵は樺太を東から、伝十郎は西から北上しました。
6月22日に再び合流した二人はラッカという場所まで行ったところで、これ以上先に進むのはむずかしいとしてラッカより北には行きませんでした。
このときに樺太は島じゃないか、と思っていたそうです。
しょうがなく宗谷に帰ってきた林蔵は一月もたたないうちに7月13日に幕府より「樺太の東から行って、一番北を調べなさい」と言われアイヌの船に乗って単身で出発し、林蔵は幕府に言われたこととは反対に、伝十郎と同じく西から北上、トンナイ(旧真岡付近)で冬を越し、翌年5月に樺太を北上、樺太北端のナニオーまで踏査して樺太が島であることを確認しました。
この時の探検地図が、後にシーボルトによって紹介され、樺太北部と大陸の間が「間宮海峡」と命名されたのです。
林蔵はその後も大陸へ渡り、ロシアのことや中国のことを調べました。
こうして一年半も樺太を調べた後、さらに一年間かかって幕府へ調べた結果を伝えるために樺太の地図と「北夷分界余話(ほくいぶんかいよわ)」と「東韃紀行(とうだつきこう)」という二つの本を書いたのでした。



■間宮林蔵渡樺出港の地
宗谷岬から西へ3キロメートルの第2清浜地区に、「間宮林蔵渡樺出港の地」があります
彼の著書“東韃(とうだつ)紀行”でもただ“宗谷”とあるだけで漠然としています。
しかし、林蔵の墓石が見つかったことや、アイヌの「林蔵祭」伝承などから、現在の第2清浜地区と考えられます。
文化5年4月13日、幕府から命を受けた林蔵(当時29歳)は、松前奉行支配調役・松田伝十郎とともに、第1次樺太探検に出発しました。
このとき、林蔵は郷里から持ってきた墓石を海岸に建て、探検への覚悟のほどを示したといわれています。


続いて宗谷の歴史公園へ移動


■宗谷護国寺跡
江戸時代、徳川幕府は新しい寺院の建立を禁じていましたが、享和2年(1802)蝦夷地に5ケ寺の建立を許可し、文化元年(1804)に有珠善光寺・様似等樹院・厚岸国泰寺の3寺が建てられた。
安政2年(1855)幕府は蝦夷地を再直轄し、北蝦夷地警備のため宗谷は秋田藩に割り当てられ藩士が駐屯するようになった。
安政3年、有珠善光寺七代住職性誉仙海は宗谷場所請負人藤野家の宗谷支配人粂屋八右衛門と相談し宗谷に浄土宗の一寺を開山し、安政6年に建立された。寺号を泰平山松寿院護国寺と称し、幕府直轄の寺院として、明治の半ば頃までは、西は利尻、礼文、増毛、東は網走まで遠くは樺太までにも死者供養のため寺僧が巡回していた北蝦夷地の唯一の寺でした。
明治17年廃寺となり明治45年の再建のさいに焼失しました。


■旧藩士の墓
江戸幕府が外口から、今の北海道やサハリンを護るため、最初に蝦夷地直轄を決行したのは文化4年といわれています。
ただ単に寒さに強いはずという理由で、本州最北端の津軽藩士がまず、宗谷に派遣されましたが、厳冬のため、多数の越冬死者を出したといいます。
そして翌文化5年に、同じ東北の会津藩士1,558名が交代要員として派遣され、会津藩士は、宗谷のほかに樺太、利尻、礼文にも分駐し、宗谷には587名が残ったとされています。
宗谷公園に安置されている墓は、近くの海岸に点在していたものを明治時代に村民の手により1カ所に集め、さらに昭和32年現在地に移されたものです。
以来、地元では毎年慰霊祭をとり行い、この地で果てた旧藩士の冥福を祈っています。


■津軽藩兵詰合の記念碑
幕府がここ宗谷に最初に派遣したのは津軽や会津等東北の藩士でした。
悲惨を極めた派兵も文政4年(1821年)に蝦夷地の幕府直轄が廃止されたことに伴い一応打ちきられましたが、その後安政2年(1855年)に再び幕府から藩士が派遣されました。
しかし、この時代にはクワエヒル(ストーブの原型となったもの)が造られたり、フランケット(毛布)が使用されるようになったこともあり、妻子を連れて越冬できる程備えはできていたようです。
幕府が再び北辺の地で越冬を命じた時には、宗谷では多くの津軽藩士が厳しい寒さのため、水腫病などの病気で命を失いました。
日本での歴史を刻みはじめていたコーヒーが水腫病に対して効果があるといわれ、幕府は藩士たちにコーヒーを配給しました。
コーヒーは薬として大切に飲まれ、治療に使われたのですが、コーヒーを飲むことができずに、亡くなった藩士たちを悼んで津軽藩士の故郷である弘前市の有志が中心となり藩士たちを悼み建てられたのが津軽兵詰合の記念碑です。


■宗谷厳島神社
正確な建立年代は不明ですが、現存する青銅製鰐口の銘に表面「奉納 天明寅壬月吉日 宗谷御場処」、裏面「奥州南部大畑 武川氏敬白 支ハイ人向井金蔵」とあることから、天明2年(1782)以前の建立とみられます。
祭神は市杵島姫命(いつくしまひめのみこと)という水の女神です。
神社のいわれについては、更にさかのぼり、室町時代の永正12年(1515年)、松前藩の祖先武田光広が「夢」のお告げを信じ、蝦夷地海浜の要衝に、「弁財天」を祭るように命じたことから、その子孫である蛎崎慶広が、永禄4年(1561年)、姓を“松前”とい改めたおり、宗谷の地にも「弁財天堂」を寄進したのがそのはじまりとされています。
同神社は宗谷の歴史そのままに幾度かの変遷を経て明治を迎えました。明治3年、開拓判官竹田信順が厳島神社を尊崇し、社殿を修理し現在の形に近づけたと云われています。
江戸幕末期の宗谷場所を描いた、宗谷絵図や宗谷孟仙里図などの絵図資料の中には南を向いた厳島神社が描かれ、神殿・鰐口・欄間彫刻・懸額・懸額・木製獅子頭・鳥居が残されています。

日本最北端の地の色々な歴史の勉強になりました。