「東海道・陸奥一人旅」 東海道編

「東海道・陸奥一人旅」ポタリング「徳川家康の散歩道」東海道編

「東海道・陸奥一人旅」 東海道編
自転車を車に積んで「徳川家康の散歩道」という史跡巡りをポタリングした記事をまとめました。

4WHEELS PLUS BICYCLE
自転車を車にプラスしてフィールドへ行こう!




「徳川家康の散歩道」とは?
駿遠征服の拠点として、浜松城に居を構えた家康。在城17年の間には、三方ヶ原合戦の敗北、妻築山御前の死など、さまざまな試練があったと伝えられています。そんな家康にまつわる市内の歴史旧跡を結んだのが「家康の散歩道」です。








車に自転車を積んで最寄の駐車場からスタートする史跡のポタリング!
駐車場を探す手間や駐車料金も省け、自転車で移動している時には車では巡り会う事が出来ない出会いや発見も有って違う楽しみを味わえます。

トランスポーターを使って史跡巡りを「ぶらぶら、気軽に」楽しんでみよう!


【静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング記事】


静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング 其の一


静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング 其の弐


静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング 其の参


静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング 其の四


静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング 其の五


静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング 其の六


2010年「東海道・陸奥一人旅」


「東海道・陸奥一人旅」 東海道編


「東海道・陸奥一人旅」 陸奥(みちのく)編


「東海道・陸奥一人旅」 蝦夷地(えぞち)編

静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング 其の六


静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング




浜松城天守閣へ


天守閣の中は地下一階、地上三階の資料博物館になっています。










天守閣地下には穴蔵と呼ばれる地階があり、その中央部には石組井戸がある。
石組井戸とは穴のまわりを、石を積んで崩れないようにした井戸。
この井戸は直径1.3m、深さ1mほどで、籠城の際、貴重な水を確保するための井戸であったとの事。








天守閣三階は展望台になっていて浜松市を一望できます。
当時はビルも無いので相当見晴らしが良かったんだろうな・・・


浜松城は、三方ヶ原台地の東南端にあって、徳川家康が築いた。
家康は天文11年(1542)三河国岡崎城内に誕生し、父は松平広忠。
母に生別、駿府に少年時代を過ごすが、岡崎に戻り、永禄11年(1568)に三河から遠江に入り、各地を転戦して引馬(ひくま)城をはじめ諸城をしたがえると共に、元亀元年(1570)長子の信康に岡崎城をゆずって、自らは浜松城へ移り、駿江(すんえん)経営の本拠と定めた。
家康は、29歳から天正14年(1586)45歳で駿府城(静岡市)に入るまで、在城17年に及んでいる。
有名な姉川、長篠、高天神城、小牧・長久手の戦もこの期間に行なわれ、特に元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦は、家康の生涯における難戦で、関ヶ原合戦以上の戦いであった。
家康にとって、この浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築く試練の年でもあった。
当時の城郭は、南北500m、東西約450mで、三方ヶ原台地の斜面に沿い、天守閣・本丸・二の丸・三の丸がほぼ一線に並び、梯郭式の築城法に属している。
その他作左曲輪、出丸等もあった。
この浜松城は、豊臣の家臣、堀尾吉晴氏によって天守が築かれたといわれているが、家康のあとは、代々の諸大名にこれを守らせ、浜松藩政約260年の間に再任を含めて、25代の城主が在城した。
在城中に老中に5人、大阪城代に2人、京都所司代に2人、寺社奉行に4人(兼任を含む)が登用されており、なかでも水野忠邦は、天保の改革でよく知られている。
そのことから、浜松城が出世城ともいわれるようになった。
明治維新以後、城郭は壊され、すっかり荒廃していたが、昭和33年春浜松市民の努力が結実し、旧天守閣跡に新天守閣が再建された。
昭和34年6月18日浜松城跡は市の史跡に指定された。




第五ポイント
家康公鎧掛松(よろいかけまつ)


鎧掛松
元亀3年(1572)家康は三方原の合戦から城に帰り、大きな松の木陰で休んだ。
そのとき鎧を脱いでその松に掛けたことから、鎧掛松と呼ばれている。
この松は昭和56年に元城町の人々の手により植樹された3代目。
初代は浜松城内の堀のそばにあった。
また、当時鎧掛松近くの清水合戦により疲れた馬のからだを冷やしたところは、馬冷と言って、その地名が今も松城町内に残っている。


第十ポイント
西来寺(せいらいいん)
第十二ポイント
浜松市博物館
第十三ポイント
太刀洗の池
を端折ってしましましたが・・・
無事にスタート地点の駐車場に戻ってきました。
最初の予定では2時間ほどで終了する予定が、道に迷い4時間急な坂道を上り下りする気温27℃の炎天下の中の過酷なサイクリングでした(苦笑)
徒歩で4時間となっていますがもう少し時間に余裕をもってゆっくり史跡を見学したほうが良いと思います。

ε=( ̄。 ̄;)フゥ

静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング

静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング 其の五


静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング

快適な下り坂を走って♪♪

遂に!


第四ポイント
浜松城






自転車を止めて散策開始します!


http://homepage3.nifty.com/yogokun/参照


浜松城本丸跡


本丸
天守閣が城の象徴なら、本丸は城の本拠地である。
普通の城は天守閣を取り囲むように本丸が配置されているが、浜松城の場合は天守閣の東、約17m下に作られた。
周囲を石垣で囲み、南に正門である鉄門があった。北には富士見櫓、南東の隅には二層の菱櫓を置いた。
本丸内の建物については詳しいことは分かっていない。


天守閣
天守台は天守曲輪の内部にあり、ほぼ長方形をして周りは石垣で囲まれている。
天守閣への上り口は一ヶ所で広場の南側から三回屈曲した石段を上がると東向きの天守閣正面に達する。
面積は240㎡(およそ70坪)である。天守台には天守閣が置かれていたはずであるが江戸中期の絵図には描かれていない。
現在の天守閣は昭和33年に再建された。


浜松城跡
浜松城は、徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)6月に入城し、17年間在城した。
東西600m、南北650mの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三の丸、二の丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。
ここはその天守曲輪の跡である。家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多い。中でも水野越前守忠邦の名はよく知られている。石垣は野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。


浜松城の石垣(野面積み)



浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすいように思えますが、4百年の風雪に耐え、いまなお当時の面影を残しています。
この石垣は野面(のづら)積みといい、自然石を上下に組み合わせて積む方法で、慶長(1596年~1615年)以前はこの方法が多く用いられていました。
石の大きい面を内側にして長く押し込み(牛蒡積み)、その内側に小型の栗石を1~1.5メートルほど詰め、さらに砂利を入れてあるので水はけもよく、水圧で崩れることがありません。
石垣表面の隙間には詰め石をし、外観は乱雑ですが、堅固に造られています。
浜松城は、特に天守台と天守門跡付近の石組が堅く、石も大きなものが使われています。
また、突角部には長方形の石材を小口と側面が交互になるように配した算木積み法を用いています。
石垣の斜面は直線的で、57度~78度の傾斜をしています。
石垣に用いた石材は珪岩と呼ばれる物がほとんどで、そのほか石灰岩、結晶片岩などが見られます。
珪岩は浜名湖北岸の山々でみられ、現庄内地区の大草山や根本山、対岸の湖西市知波田付近で切り出され、佐鳴湖東岸まで船によって運ばれ、そして、浜松城まで運ばれたと推定されます。
この石垣がいつの時代に築かれたかについては正確な資料がないのでわかりませんが、二代城主堀尾吉晴(ほりおよしはる)の頃(1590年頃)と考えられています。




井戸この井戸は、銀明水と呼ばれていたという。 浜松城には、天守台に一つ、天守曲輪の埋門のそばに一つ、本丸に一つ、二の丸に三つ、作左曲輪に四つ、計十本の井戸があったという。天守台の井戸は、再建の時に残し、今は天守閣の地下室にある。

(・0・。) ほほーっ

静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング 其の参


静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング


本多肥後守忠真の碑のすぐ隣に・・・


第七ポイント
犀ヶ崖古戦場


三方ヶ原犀ヶ崖古戦場の碑
元亀 3年(1572)12月22日、三方ヶ原で甲斐の武田軍に惨敗し、敗走した徳川軍は、武田軍に追い込まれるかたちで浜松城に籠城することになった。
武田軍は追撃を中止して、犀ヶ崖付近で一部の兵を集めて夜営した。
犀ヶ崖は、浜松城の西北、約 2キロの所にある断崖であり、太古、三方原台地が水蝕によって陥没し、東西約 2キロ、幅30メートルの深い裂溝をつくっている(合戦当時は、幅約50メートル、深さ約40メートルにおよぶ大きな谷間であった)。
ここで、強力な武田軍に対して、三河武士の心意気を見せた戦闘が行なわれたと伝えられている。
徳川軍は、反撃に転じるために一計を案じ、犀ヶ崖に武田軍を追い落とそうと、崖に白い布を張り、丈夫な橋が架かっているように見せかけ、夜半になって、浜松城の近くにある普済寺に自ら火を放ち、浜松城が炎上していると見せかけておいて、浜松城内に残っている鉄砲を集めていた、大久保忠世、天野康景らが犀ヶ崖付近の間道を通って武田の陣営の背後にまわり、鉄砲を撃ち込み、夜襲をかけた。
不意打ちをかけられ、逃げ場を失った武田軍は狼狽して、台地を駆け走り、闇の中で地理不案内のために人馬もろともを犀ヶ崖の谷底へ転落、又、ある者たちは、徳川軍が張った白い布を橋と勘違いして転落したといわれ、たちまち数10人が絶命したという。
この報告を受けた武田信玄は、「勝ちても怖き相手なり」と、20歳も年下の家康公を評したと伝えられている。
三方ヶ原合戦の翌々年頃より、夜更けになると犀ヶ崖の谷底から人や馬のうめき声が聞こえ、付近で怪我人が続出したり、イナゴの大群が発生して農作物に被害を与えたりしたため、人々はこれは犀ヶ崖の戦死者の「たたり」と恐れるようになった。
そこで家康公は三河から了傳(りょうでん)という僧侶を招いて、7日 7夜、鉦と太鼓を鳴らして供養したところ、「たたり」は治まったといわれている。以降、家康公は、三葉葵の紋付羽織を着ることを許し、念仏踊りを奨励した。
その後、了傳の後を継いで宗円がさらに布教に努めたため、遠州各地で大念仏が盛んに行なわれるようになったといわれる。


犀ヶ崖(さいががけ)


当時の犀ヶ崖は、東西約2km、幅50m、深さ40mに及ぶ切り立った断崖絶壁でした。
「崖に布を張り、橋と見せかけて武田軍をこの谷に落とした」という伝説もあります。
当日は雪の降る日だったらしくまるで白い布を架けたように見えたのでしょう。
なお布橋一丁目の「布橋」という町名は、このは伝承にちなんだ地名です。


犀ヶ崖(さいががけ)に隣接して犀ヶ崖資料館が有ります。


犀ヶ崖資料館は、三方原の戦いによる死者の霊をまつった宗円堂というお堂。
また、昭和5年(1930年)に結成された「遠州大念仏団」の本部としても、永く利用されてきました。
浜松市は、昭和47年(1972年)3月に遠州大念仏を無形民俗文化財に指定するとともに、昭和57年(1982年)には、この建物を資料館として改修し、遠州大念仏及び三方原の戦いに関する資料を展示することに。
この資料館は、遠州大念仏及び三方原の戦いについての理解を深め、郷土に伝わる文化遺産を後世に残していくことを目的としています。
また,犀ヶ崖は浜松城の北側約1キロメートルにある、渓谷で、三方原古戦場として昭和14年(1939年)に、静岡県の史跡に指定されました。
昭和58年4月開館

現在、犀ヶ崖資料館となっている宗円堂には、三方ヶ原合戦による両軍の死者の霊が祀られており、その霊を慰めるために、毎年 7月15日に犀ヶ崖において、遠州大念仏が行なわれている。








資料館には徳川家康の資料や三方原の戦いの資料が展示して有ります。


徳川家康三方ヶ原戦役画像
別名有名な「家康しかみ像」
浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となり多くの家臣を失った家康が、自我の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情をあらわした珍しい肖像画です。

元亀3年(1572年)10月3日、2万7千の大軍を率いて甲府を出発した壮年武田信玄は、遠江に侵入すると徳川方の城を次々に落とし、12月には家康の居城である浜松城に迫りながら攻撃を行わず三方ヶ原に家康を誘い出し大敗させ、命からがら城に逃げ帰った家康は、将としての冷静さを失った自分を大いに反省したのであります。


ジオラマを使って武田軍の事や三方ヶ原の戦いを親切に説明してくれます。
色々な歴史的人物のの名前が出てきますが・・・

○△■×※アレレレ!?(・_・;?

事前にもう少し歴史の勉強してきたら良かったと少し後悔・・・


犀ヶ崖古戦場のすぐ向かいに


第八ポイント
夏目次郎左衛門吉信の碑


永禄6年(1563)三河一向一揆の時に六栗城主だった夏目吉信は一揆勢に加担し、野場城に立て籠もった。
松平伊忠に攻められ捕らえられたが、家康はこれを許し、命を助けた。
元亀3年(1572)12月22日徳川家康は、武田信玄と三方ケ原で戦ったが、散々に打ち破られた。
城から出で戦場に出向いて、家康に退却するように諌めた。
家康は進もうとするが、吉信は家康の馬を浜松城に向けて馬の尻を叩き走らせた。このとき吉信は、恩を報ずるのは今と、家康と名乗り敵陣にへと走り家康の身代りとなり、壮烈な討ち死にをとげたと言われています。

予定では昼でポタリングを終える予定でしたが、まだ半分しか終わっていないこの場所で昼を過ぎている・・・

(|||_|||)ガビーン

静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング 其の弐


静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング


遠州鉄道奥山線跡地の遊歩道を通って次の目的地へ


亀山トンネル








遠州鉄道奥山線とは
奥山線(おくやません)は、かつて静岡県西部、浜松市の遠鉄浜松駅(現・遠州病院駅)から三方原台地を北上して国鉄二俣線金指駅を経由し、引佐町(現・浜松市)の奥山駅に達していた、遠州鉄道の鉄道路線。軌間762mmの軽便鉄道。
元は浜松鉄道(開業当時は濱松軽便鉄道)という、遠州鉄道とは別の私鉄だったが、戦後に吸収され遠州鉄道奥山線となった。
また1950年に途中の曳馬野まで電化され、曳馬野以北からの気動車と併結運転(協調運転ではない)したりもしていた。
戦後のモータリゼーション到来により業績を落とし、1963年(昭和38年)の区間廃止を経て、翌1964年に全線廃止された。






地元浜松の人も知っている人が少ない遠州鉄道奥山線跡地遊歩道でした!




第六ポイント
本多肥後守忠真の碑

( ̄_ ̄|||)
ここにたどり着くのに道を間違ってしまいおもいっきり坂を下りてしまい・・・
苦痛のサイクリングの始まりでした・・・


気を取り戻して散策♪


本多肥後守忠真の碑


この碑は、本多肥後守忠真の忠義を称えて、第17代本多子爵により明治24年に建立されました。本多忠真は徳川草創期を支えた徳川四天王の一人である本多忠勝の叔父にあたる武将です。
本多忠真は三方原の戦いで武田軍に大敗した徳川軍にあって、撤退に際し殿(しんがり)を買って出ました、道の左右に旗指物を突き刺し、「ここから後ろには一歩も引かぬ」と言って、武田勢の中に刀一本で斬り込み、39歳をもってこの地で討ち死にしたと伝えられています。
忠真の子、菊丸は父の命により家康を援護し浜松城に無事退却しました。
父の最期を前にし友が次々と死んでいくのを見た彼は無常を感じ、父の遺骸を三河に葬ったあと出家の道を歩むことになりました。
この碑には本多家が代々松平家、徳川家に仕えたこと、本多忠真が数々の戦いで功績を残したことが記されています。また碑の題字「表忠彰義之碑」は徳川家16代家達公によって書かれています。
(看板資料より)


本多肥後守忠真の碑の横に・・・


ねずみ小僧次郎吉の墓

Σ(゚д゚;) ヌオォ!?

ねずみ小僧次郎吉
鼠小僧(ねずみこぞう、寛政9年(1797年) - 天保3年8月19日(1832年9月13日))は化政期に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯。
舞伎小屋・中村座の便利屋稼業を勤める貞次郎(定吉・定七とも)の息子として生まれる。
10歳前後で木具職人の家へ奉公に上がり、16歳で親元へ帰った。その後は鳶人足となったが賭博で身を持ち崩し、その資金稼ぎのために盗人稼業に手を染める。
文政6年(1823年)以降、武家屋敷の奥向に忍び込むこと28箇所32回におよび文政8年(1825年)に土浦藩藩主である土屋相模守彦直の屋敷に忍び込んだ所を捕縛され南町奉行所の尋問を受けるが、初めて盗みに入ったと嘘をついて切り抜け入墨を入れられ中追放の刑を受ける。

一時は上方へ姿を消し、江戸に密かに舞い戻ってからは父親の住んでいる長屋に身を寄せる。
しかし、賭博の資金欲しさにまたもや盗人稼業に舞い戻る。

その後7年にもわたって武家屋敷71箇所、90回にわたって忍び込みついに天保3年5月5日(1832年6月3日)(日付については8日(6日)などの諸説あり)、日本橋浜町にある小幡藩主・松平宮内少輔忠恵の屋敷で捕縛される。
北町奉行・榊原忠之の尋問に対し盗んだ金銭の総額については3000両以上と鼠小僧は供述したが本人が記憶していない部分もあり、諸書によっても違うので正確な金額は未だに不明である。

3ヵ月後の8月19日(9月13日)に市中引き回しの上での獄門の判決が下される。
この刑は本来なら凶悪犯(放火や殺人)に適用される刑であり、この判決は武士階級の面子を潰された恨みの産物という見方もできる。なお市中引き回し時の鼠小僧は美しい着物を身に付け、薄化粧をして口紅まで注していたという。

処刑は小塚原刑場にて行われた。享年36。

ねずみ小僧次郎吉の墓は東京の両国にあるのが有名で、ねずみ小僧次郎吉の墓となっていますが御骨は無く供養塔という噂。昔
この地区はばくち打ちが多くねずみ小僧次郎吉にあやかろうと供養塔を立てたと言われています。

静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング 其の一

静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング


静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」を歴史や人物を振り返りながらご紹介します。


ここでサイクリングKIT(チューブ・パンク修理キット・タイヤレバーetc)を取付しました。
鍵はオグショー佐々木君の私物を借りました。


「徳川家康の散歩道」とは?
駿遠征服の拠点として、浜松城に居を構えた家康。在城17年の間には、三方ヶ原合戦の敗北、妻築山御前の死など、さまざまな試練があったと伝えられています。そんな家康にまつわる市内の歴史旧跡を結んだのが「家康の散歩道」です。

徒歩で所要時間約4時間位の散歩道ということでしたので自転車なので2時間くらい・・・
午前中に時間を見つけて昼までには終わるだろう・・・
という安易な考えで・・・


浜松城駐車場にて簡単な地図を頂いて「徳川家康の散歩道」ポタリングスタート!


浜松市内には自転車専用道路も完備されていました。
さすが二輪の街!


第一ポイント
二代目将軍徳川秀忠公誕生の井戸
順調です♪






二代目将軍徳川秀忠が産湯をつかったと伝えられる井戸の跡。
徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)とは
生誕 天正7年4月7日(1579年5月2日)
死没 寛永9年1月24日(1632年3月14日)
徳川家康の三男として、遠江国浜松に生まれ、乳母大姥局によって養育される。
母は側室の西郷局。
母の実家・西郷氏は、九州の菊池氏一族で、室町初期には守護代をつとめたこともある三河国の有力な国人であった。

同母弟に家康の四男松平忠吉がいる。長兄・松平信康は秀忠の生まれた年に死亡、庶兄の・秀康は豊臣秀吉の養子に出され、のちに結城氏を継いだので、母親が三河の名家である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。
秀吉の推挙により14歳で中納言に任官し、秀吉から羽柴の名字を授けられ、「江戸中納言」と称した。

天正18年(1590年)、秀吉の養女で織田信雄の娘・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封されたことにより離縁となる。
文禄4年(1595年)には織田信長の姪で同じく秀吉の養女江(父は浅井長政、母は信長の妹市で姉が秀吉の側室淀殿)と再婚。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられ、9月10日に美濃の赤坂宿に到着する予定(福島家文書に「中納言、さだめて十日時分には其地まで参るべし」)だったが、信濃国上田城攻めで、真田昌幸の激しい抵抗に時間を奪われて9月15日(新暦10月21日)の本戦には参加できなかった。
近年の研究では、このことで軍事面に於いてその無能振りを全国に示した秀忠及び自分の死後の徳川家の将来を悲観した家康が、もともとは秀吉の遺言に従い、徳川・豊臣両家共存の意向だったのを取り止めて、後顧の憂いを絶つべく豊臣家廃絶の道を選んだのではないかとする考えが示されている。

そのように軍事面での才能には疑問が持たれる秀忠だが、それでも後継者となったのは家康が秀忠を「守成の時代」の君主に相応しいと考えていたからだと言われている(家康は唐の太宗の治世について記した『貞観政要』を読んでおり、当然その中の「守成は創業より難し」という一文も読んでいたと思われる)。
律儀に父の路線を守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言える。
ただ、秀忠自身は武将として汚名が付いたことを気にしていたらしく、大坂冬の陣では家康に対して豊臣方への強攻策を主張しており、この戦いに勝利することで汚名を返上しようとしていたのではないか、とする説もある。




第二ポイント
椿姫観音(つばきひめかんのん)
こじんまりしていて探すのに少し苦労しました・・・




引間城(曳馬城)の女城主お田鶴の方を祀った観音様
飯尾豊前守乗竜の後を継いで第五代引間城主となったお田鶴の方を祀っているのが椿姫観音です。
お田鶴の方が女城主となった引間城は、永禄11年(1568年)に徳川家康に攻められて落城しました。
お田鶴の方は最後まで戦い、討ち死にしてしまいます。
この戦いぶりに感動した徳川家康は塚を築いてお田鶴の方を手厚く葬り、家康の正妻、築山御前は塚の周りに椿を植えました。
この椿が名前の由来となり、お田鶴の方は椿姫と呼ばれるようになりました。


ご近所の方だと思うのですが観音様の周りにはお花が沢山でした。

続いて


第三ポイント
東照宮(引間城跡)




曳馬城址(引間城址)
浜松城の前身の引間城跡
引間城(ひくまじょう)
創築年、創建者とも諸説があるようですが、一般的には『宗長手記』にも登場する吉良氏家臣の巨海新左衛門(おおみしんざえもん)が築いたとされています。
この後、歴史上に登場するようになったのは、明応3年(1494年)今川氏親が遠江に侵攻を開始してからで、文亀元年(1501年)頃からは斯波氏と直接対戦し、文亀3年(1503年)には浜名湖周辺を制圧する程の勢いでした。

永正13年(1516年)には、斯波氏の家臣である引間城主の大河内貞綱(おおこうちさだつな)を滅ぼし、遠江の完全制覇を成し遂げました。
この攻撃の勝因は、安部山の金堀衆を動員し、井戸を枯らす作戦が成功したことによります。
今川氏親は、城主に飯尾賢連(いいおかたつら)を置き、その後、乗連(のりつら)連竜(つらたつ)の三代が在城したことが、『糀屋記録』に記されています。

永禄3年(1560年)、今川義元が桶狭間で討ち死にし、西から松平元康(家康)が遠江に力を伸ばして来ると、連竜は今川氏真を見限り元康と通じてしまいます。
それにより、永禄6年と7年に今川氏真から攻撃を受けますが、これを防ぎ講和という形で一応収まります。
しかし、永禄8年(1565年)、駿府に呼ばれた連竜は暗殺されてしまいます。

その後、城代の江馬安芸守泰顕(やすあき)と同加賀守時成が守りますが、永禄11年(1568年)に内紛が起こり一旦は滅亡します。
同年12月、この機に家康は重臣酒井忠次に命じ、城を奪取することに成功したと『浜松御在城記』に記されています。

歴史を振り返ると
椿姫観音(つばきひめかんのん)
引間城(曳馬城)の女城主お田鶴の方は最後まで戦い、討ち死にしたのがこの場所なんですね。






静岡県浜松市にある東照宮は、明治19年(1886)、引間城跡に創建された徳川家康を祭神とする社です。

東照宮について
徳川家康を祀った神社を東照宮と称します。
家康が元和2年(1616)に死去すると、その遺体は久能山(静岡)に葬られ、墓前に社殿が造立されました。
そして翌年、朝廷から東照大権現(とうしょうだいごんげん)の神号がさずけられ、東照宮と称するようになりました。
次に御霊の一部を日光(栃木)に移し、日光にも東照宮が建てられました。
また、江戸城内や、御三家の城下である名古屋・水戸・和歌山、徳川氏ゆかりの地である世良田(群馬)・鳳来寺(愛知)・岡崎(愛知)などにも造立されました。
さらに各藩でも東照宮を建てるものが多く、家康と関係の深い天海(てんかい)や崇伝(すうでん)らによって、寛永寺・増上寺・喜多院(仙波東照宮)・南禅寺などにも設けられ、江戸時代には全国で500社を超える東照宮が造られました。
しかし、明治維新以後は廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社ほどになりました。


第四ポイント
浜松城
は最後に見ることにして通過・・・

上河内サービスエリア

「東海道&みちのく一人旅」


宇都宮市にある上河内サービスエリア






三回目の給油
東京都内走ったので燃費は伸びず
走行距離350.2km
47リッター 
燃費7.45km

ティピーアウトドドアデザイン様訪問

「東海道&みちのく一人旅」


ティピーアウトドアデザイン様に到着!


定休日だったのですが、色々なメーカーの方も来て頂き新商品など色々な打ち合わせをしました。


夜にはティピーアウトドアデザイン神木社長、八重洲出版梅林さんも合流して食事に行きました。

そこで・・・
埼玉B級グルメ発見!?


一見普通のサラダに見えますが・・・


味付けはお茶漬けの素!
美味しかったです♪

お忙しい中有難うございました。

本日埼玉県から福島県へ向かいます。

スポーツバイクファクトリーふじみ野スズキ様訪問

「東海道&みちのく一人旅」

スポーツバイクファクトリー北浦和スズキ様訪問後・・・


2010年4月1日にオープンしたスポーツバイクファクトリーふじみ野スズキ様を訪問しました。










店舗も広く品揃えも豊富な綺麗なお店でした。


飯森さんも自転車の勉強中!?

スタッフさんやお客様とも4WHEELS PLUS BIKEのお話が出来て楽しい時間を過ごす事が出来ました。

スポーツバイクファクトリースズキ&ティピーアウトドアデザインのコラボイベントも計画中!
日程が決まりましたらご報告します。

スポーツバイクファクトリーふじみ野スズキ
〒354-0031埼玉県富士見市勝瀬1380
TEL:049-266-7878
FAX:049-266-7878
*営業時間:12:00~20:00
*定休日:水曜日
スポーツバイクファクトリースズキHP
スポーツバイクファクトリースズキBLOG

スポーツバイクファクトリー北浦和スズキ様訪問

「東海道&みちのく一人旅」


6月15日の東京は快晴!
埼玉へ向けて移動です。


ティピーアウトドアデザイン飯森さんと合流して・・・


スポーツバイクファクトリー北浦和スズキ様訪問






地域性なのかMTBは無くロードバイク、クロスバイクがズラリ展示。
ビアンキの品揃えが豊富でした。

スポーツバイクファクトリー北浦和スズキ
〒330-0072 埼玉県さいたま市浦和区領家3-23-17
TEL:048-883-7077
FAX:048-883-7077
*営業時間:12:00~20:00
*定休日:水曜日 

スポーツバイクファクトリースズキHP
スポーツバイクファクトリースズキBLOG


以前お邪魔したときのスポーツバイクファクトリー北浦和スズキショップ紹介はこちら

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