「東海道・陸奥一人旅」 蝦夷地(えぞち)編

「東海道・陸奥一人旅」函館ポタリング 蝦夷地(えぞち)編

2010年 「東海道・陸奥一人旅」 蝦夷地(えぞち)編
自転車を車に積んで観光地や史跡をポタリングした記事をまとめました。

4WHEELS PLUS BICYCLE
自転車を車にプラスしてフィールドへ行こう!








車に自転車を積んで観光地付近の無料駐車場に車を停めて気軽に観光地をポタリング♪
気になるお店や観光名所に気軽に停めて散策出来るので徒歩や車の観光とは違う楽しさが有ります。
車と自転車をセットで観光地を「ぶらぶら、気軽に」楽しんでみよう!

【「東海道・陸奥一人旅」函館ポタリング 蝦夷地(えぞち)編 関連記事】


函館 B級グルメで車中泊


函館ポタリング トラピスチヌ修道院 石川啄木小公園


函館ポタリング 函館朝市 函館A級グルメを求めて・・・


函館ポタリング 青函連絡船記念館「摩周丸」


函館ポタリング ベイエリア


函館ポタリング 五稜郭誕生から幕末の歴史を振り返る


2010年「東海道・陸奥一人旅」


「東海道・陸奥一人旅」 東海道編


「東海道・陸奥一人旅」 陸奥(みちのく)編


「東海道・陸奥一人旅」 蝦夷地(えぞち)編

幼少期を振り返って・・・

2010年 「東海道・陸奥一人旅」 蝦夷地(えぞち)編


無料高速が伸びているのに高速に乗らず国道5号線を北上・・・


更に旧5号線を走って八雲町市街へ


小学校1年~3年生までの3年間通った八雲小学校へ来ました。


体育館は新しくなっていましたが校舎は昔のままの姿でした。


1879年 八雲学校設立の許可を受け、校舎建築に着手、7月落成(40坪)し、8月18日から授業開始。
1880年 八雲学校開校式、教員植松稔、児童数30名。
1883年 八雲学校を八雲小学校と名称変更。
1894年 八雲小学校で天皇・皇后両陛下の御真影拝戴。
1895年 八雲、落部小学校修業三か年の尋常小学校となる。
1908年 八雲小学校尋常科を6年に延長、高等科を2年に短縮。
1909年 八雲小学校屋内体操場264平方メートル新築。
1926年 町立八雲家政女学校を八雲小学校に併置開校、初代校長に小学校長平尾覚次郎兼任。
1957年 八雲小学校体育館新築落成。
1962年 八雲小学校改築工事四か年継続事業として着工。
1965年 上鉛川小中、久留米小学校廃校、八雲小中学校に統合。
       学校統合に伴いスクールバス(定員54名)運行。
       八雲小学校改築工事完成。
1976年 熱田小学校閉校、八雲小学校に統合。
1979年 八雲小学校開校百年記念式典。
1980年 八雲小学校増改築工事完成。





と明治12年開校131年と北海道では歴史の古い小学校です。
※赤字が通っていた頃

3年間の短い間でしたが色々と思い出が残る小学校です。

小学校を出発して通っていた保育園へ


国の子ほいくえん




30数年前に通っていたのでもう無くなっているかな・・・
と思いながら記憶をたどって着たので嬉しかったです♪

幼少期は森町、八雲町、長万部と住んでいたので昔の思い出の場所を辿った道中でしたが昔住んでいた家はすでに無く、建物として残っていたのが八雲小学校と国の子ほいくえんでした。

次回は昼間にゆっくり思い出の場所を散策したいと思います。


長万部から高速にのって順調に札幌へ到着!
大量の虫が付いたので洗車です。


ここですぐれものの洗車機との出会いが!


■標準泡洗車コース
 水⇒泡洗剤⇒一時停止⇒水 9分 400円
一時停止中にスポンジで洗える時間が有るとは超便利です!


NEEDBOXデモカーはダイヤモンドキーパーコーティングを施工しているので洗ってもなかなか落ちない虫も簡単に洗い流せます♪


札幌にて8回目の給油
走行距離298.5km
35.1リッター 
燃費8.5km

6月23日PM11:00
車中泊をしながら観光地をサイクリングした約2500kmの陸奥一人旅も無事に終了!
この経験を新しい商品開発に繋げていけるように頑張ります!
後日・・・実際に体験した200系ハイエース車中泊の便利グッズを紹介していきたいと思います。

函館散策を終えて国道5号線を北上・・・

2010年 「東海道・陸奥一人旅」 蝦夷地(えぞち)編


五稜郭にて五稜郭誕生から幕末の歴史を振り返った後・・・

函館の滞在時間はわずかでしたが札幌へ向けて出発!


森町駒ケ岳にて7回目の給油
走行距離337.2km
52リッター 
燃費6.48km

朝の予定では函館散策終了後に大沼公園をMTBで1週しようと思っていたのですが五稜郭タワーの見学が遅くなり断念・・・
国道5号線を札幌へ向かう途中に旧幕府軍海軍副総裁榎本武揚と土方歳三が上陸した地に立ち寄りました。


森町 鷲の木史跡公園


榎本軍鷲の木上陸地跡
案内標識には下記の事が書いてありました。
「明治元年(1868)旧10月20日、噴火湾中央部の鷲ノ木村に榎本武揚(徳川旧臣)率いる艦隊が上陸しました。上陸時の鷲ノ木は、積雪30cm、北西の強風で波は荒れ(夕バ風)、暴風雪であったといわれる。
榎本艦隊は、旗艦開陽丸ほか7艦(回天(かいてん)、蟠龍(はんりゅう)、長鯨(ちょうけい)、神速(じんそく)、鳳凰(ほうおう)、回春(かいしゅん)、大江(おおえ)で、このときの人員は、榎本をはじめ松平太郎、大鳥圭介、土方歳三、古屋佐久左衛門ら二千人以上と言われ、上陸したのは主に陸兵でした。
当時の鷲ノ木村は戸数約150、人口約800で茅部街道の要所でもあり、箱館への交通も開けていました。
21日、人見勝太郎以下32名の先発隊が峠下村(現七飯町)で待ちかまえて官軍と撃戦となり、箱館戦争へと展開していく事になります。開戦とともに鷲ノ木村は榎本軍の後方陣地となり、高森台場(現東森)、石川原沢口台場(現富士見町)、湯の崎台場(現鷲ノ木)などが構築されました。
こうして、明治二年五月の、函館戦争終結までは負傷者や病人達の療養地となり、また戦死者は、霊鷲院に手厚く葬られました。
今も鷲ノ木の墓地には榎本軍戦死者たちが眠っており、史跡公園内には上陸記念碑や慰霊碑などがあります。」
 平成二年七月三十日
 森町教育委員会


榎本軍戦死者たちが眠っている鷲ノ木の墓地。
墓地は荒れていて手入れはあまりされていない状態・・・

ここで2羽のカラスが威嚇するように低空飛行で頭の上をかすめて何度も飛んできました。
これ以上この場所にいても危険と感じたのでデモカーまで戻りますが、デモカーまで戻る際にも何度も低空飛行で威嚇されました。
公園から出るまでカラスはデモカーの周りを飛んでいました。

今回と同じ事が
「日本最北端の一人旅 」
宗谷の歴史公園旧藩士の墓
でも2羽のカラスに襲われそうになりました。
多分、カラスは自分巣を守っていると思いますが墓地を守っているかのような出来事でした・・・

(|||ノ`□´)ノオオオォォォー!!(恐)

カラスの襲撃で滞在時間数分で札幌へ向けて出発!

車を走らせる事数十分・・・

八雲町にある山越内関所跡地へ立ち寄りました。


山越内関所跡地
当時、この山越は和人とアイヌの地の境で、東蝦夷地への人の出入りを監視する場所でした。
享和元年(1801)に亀田(現在は函館市)にあった関門が山越内に移され、「山越内関門」が置かれた。
この関門は日本最北に位置し蝦夷地への武器の持ち込みの取り締まりや通行人の往来切手改めが行われ文久元年(1861)に廃止された。


山越の夜泣き石
関所が設置されていた時代に、罪人を切るために腰をかけさせたと言い伝えられている石。
真夜中、関所の裏の方からしくしくと人のしのび泣く声が聞こえてくるので、関所の番人が不思議に思って行ってみると、暗闇の中に人がうずくまっているように見えた。
番人がそっと近づいてみると、それは罪人が切られるときに腰をかける石で、しくしくというその泣き声は石の下から聞こえてきていたと伝えられています。
山越内関所は文久元年(1861年)に廃止されたが、夜泣き石だけは処分されずに残された。石は血の跡で黒ずんでおり、血染めの石ともいわれ、戦後ようやく今の形に保存されるようになった。

写真はシャッタースピードを遅くして撮影しているので明るく感じますが、ここに到着したのは夕方で薄暗く不気味な感じでした・・・

ヽ(ヽ ̄□ ̄))))) ヒイィィィ!!!

ここも長居せずに札幌へ・・・

すでに無料高速が伸びているのに高速に乗らず国道5号線を走っているのには理由が・・・

「五稜郭誕生から幕末の歴史を振り返る」ポタリング

2010年 「東海道・陸奥一人旅」 蝦夷地(えぞち)編


「函館ベイエリア」ポタリングを終えて・・・


五稜郭公園をポタリング!














まずは五稜郭のお堀の外周をポタリングです。
1週約2km位でマラソンしている人やワンちゃんの散歩をしている方もたくさんいました♪
とりあえず2週して五稜郭の中へ










五稜郭内も自転車に乗ることは可能ですが外周はMTBバイクじゃないと厳しいかも・・・


約140年ぶりに復元され、先日一般公開された「箱館奉行所」は当時は工事中でした。


せっかくなので新しくなった五稜郭タワーを見学です!




修学旅行生が沢山!




土方 歳三(ひじかた としぞう)
天保6年5月5日(1835年5月31日) - 明治2年5月11日(1869年6月20日)(享年35〈満34歳没〉
土方 歳三は新選組副長、幕末期の幕臣。
新選組鬼の副長として皆に恐れられた。
戊辰戦争では幕府側指揮官の一人として図抜けた軍才を発揮し、いわゆる「蝦夷共和国」においては陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取に就任した。


タワーに上ると・・・


函館市内も一望


NEEDSBOXデモカーも発見♪


五稜郭跡(五稜郭公園)も一望です!

■五稜郭概要
当時の正式名称は亀田役所土塁(柳野城とも)。
日米和親条約締結による箱館開港に伴い、防衛力の強化と役所の移転問題を解決するために徳川家定の命により築造された。
設計を担当したのは洋式軍学者の武田斐三郎。
大砲による戦闘が一般化した後のヨーロッパにおける稜堡式の築城様式を採用し、堡を星型に配置している。
総面積、74,990坪(約247,466m²)、施工は土工事を松川弁之助、石垣工事は井上喜三郎、奉行所の建築には中川源蔵が請け負った。
当初は外国の脅威に立ち向かうために築造が計画されたが、脅威が薄れていくとともに築造の目的が国家の威信になった。

■五稜郭歴史
江戸時代
1857年(安政4年) 工事開始。
1864年(元治元年) 業務開始。
1866年(慶応2年) 工事完了。
近代
1868年(明治元年)10月26日、佐幕派の大鳥圭介隊と土方歳三隊の両隊が五稜郭を占拠。
1869年(明治2年)1月、箱館政権樹立。
1869年(明治2年)5月18日、新政府軍に敗北し明け渡される。(詳細は箱館戦争を参照)
1871年(明治4年)以降、五稜郭内部の建物はほとんど取り壊され、材木などは開拓使官舎に使われた。その後は要塞兼練兵場として陸軍省の管轄下に置かれていた。中川嘉兵衛が結氷を切り出し、「函館氷」と銘打って京浜市場に送りはじめる。
1914年(大正3年) 公園として一般に公開される。
1917年(大正6年) 片上楽天が兵糧庫を利用して「懐旧館」を設立。箱館戦争に関する資料を展示していた。
1922年(大正11年) 国の史跡に指定される。
















五稜郭タワー展望台には模型と漫画でペリー来航から五稜郭の誕生の歴史など色々な出来事がわかりやすく紹介されています。

その中でも今までの自分の解釈が間違っていた歴史と人物・・・

新撰組は戊辰戦争で敗北して土方歳三は北海道まで逃げてきたかのように解釈していたのですが・・・

■幕末の動乱-箱館戦争-土方歳三
アメリカの要求に屈した徳川幕府に対する不満は倒幕運動へと発展し日本を二分する争い戊辰戦争が起こります。
大政奉還、江戸城明け渡しなど、風前の灯火となった幕府勢力の中、旧幕府軍海軍副総裁榎本武揚と土方歳三は仙台で落ち合い、新選組生き残り隊士に桑名藩士らを加えて太江丸に乗船し、榎本武揚らと共に10月12日仙台折浜(現:宮城県石巻市折浜)を出航、蝦夷地に渡った。
土方歳三最期の地碑10月20日、蝦夷地鷲の木に上陸後、歳三は間道軍総督となり五稜郭へ向かった。
新選組は大鳥圭介総督の下本道を進んだが、歳三には島田魁ら数名の新選組隊士が常に従っていたと言う。
箱館・五稜郭を占領後、歳三は額兵隊などを率いて松前へ進軍し松前城(福山城)を陥落させ、残兵を江差まで追撃した。
この時、榎本武揚は土方軍を海から援護するため、開陽丸で江差沖へ向かったが、暴風雨に遭い座礁。
江差に上陸して開陽丸の沈没していく姿を見守っていた榎本と歳三は、そばにあった松を叩いて嘆き合ったと言われ、今でもその「嘆きの松」が残っている。
江差を無事占領した歳三は、一度松前城へ戻り、12月15日榎本が各国領事を招待して催した蝦夷地平定祝賀会に合わせて五稜郭へ凱旋した。
その後、幹部を決定する選挙が行われ、榎本を総裁とする「蝦夷共和国」(五稜郭が本陣)が成立、歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねた。
箱館の地でも歳三は冷静だったと言う。
箱館政府が樹立され、榎本らが祝杯を交わしている時も歳三は1人沈黙を保ち、「今は騒ぎ浮かれる時ではない」と言っていたと伝わる。

1月から2月にかけては箱館・五稜郭の整備にあたり、3月には新政府軍襲来の情報が入ったため、歳三は新政府軍の甲鉄艦奪取を目的とした宮古湾海戦に参加、作戦は失敗し多数の死傷者が出るも、歳三は生還する。

明治2年(1869年)4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。
歳三は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦する。
その戦闘中に新政府軍は鈴の音を鳴らし、包囲したと思わせる行動をとり、自軍が包囲されたと思った土方軍は動揺した。
これに対し歳三は「本当に包囲しようとするなら、音を隠し気づかれないようにする。」と冷静に状況を判断し、部下を落ち着かせた。また、戦いの合間に歳三は部下達に自ら酒を振舞って廻った。
そして「酔って軍律を乱してもらっては困るので皆一杯だけだ」と言ったので、部下は笑って了承したと言う。
土方軍が死守していた二股口は連戦連勝。
しかし、もう一方の松前口が破られて退路が絶たれる危険が起こったため、やむなく二股口を退却、五稜郭へ帰還した。

そして明治2年(1869年)5月11日(旧暦)、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、新選組隊士島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣。
新政府軍艦朝陽が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「この機会を逃すな!」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役大野右仲に命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、「我この柵にありて、退く者を斬る!」と発した。
歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦、馬上で指揮を執った。その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたと言う。
敵の銃弾ないしは流れ弾に当たったとするのが通説だが、降伏に頑強に反対する土方を除くために味方の手によって暗殺されたとする説もある。
歳三の命によって台場方面に進軍していた大野率いる兵士らは一時勢力を盛り返していたが、突然乱れて大野の必死の指揮にもかかわらず総崩れとなった。
大野がやむを得ず引き返したところ、同じく陸軍奉行添役の安富才助から歳三の戦死を知らされたと言う。歳三の遺体は小芝長之助らに引き取られて、他の戦死者と共に五稜郭に埋葬されたとも、別の場所に安置されていたとも言われる。
その場所は特定されていない。
享年35。

と土方歳三の北海道での戦いを簡単にご紹介しましたがこの他にも松前藩の事や色々な資料が展示されています。
北海道の歴史や幕末の歴史を振り返る良い勉強になりました。




怖っ!

「函館ベイエリア」ポタリング

2010年 「東海道・陸奥一人旅」 蝦夷地(えぞち)編



青函連絡船記念館「摩周丸」散策を終えて・・・


函館ベイエリアをポタリング開始!


赤レンガ倉庫郡 金森倉庫


道路は石畳なのでサイクリングにはマウンテンバイクかクロスバイクがオススメ!


函館B級グルメ2トップ!
ハセガワストア&ラッキーピエロ


摩周丸からも一望できた・・・




函館で一番有名な坂「八幡坂」


函館八幡坂ヒルクライム!

(;´・`)> ふぅ…(汗)



一番奥に見えるのが摩周丸
















函館はペリーが来航して以来開港されて西洋の文化が数多く入り教会や西洋風の建築物が数多く有り散策をしていても楽しい街です♪
坂は多いので注意!(笑)

青函連絡船記念館「摩周丸」

非常に間が空いてしまいましたが・・・
2010年 「東海道・陸奥一人旅」 蝦夷地(えぞち)編


函館朝市 函館A級グルメを堪能して・・・




散策していると・・・


青函連絡船記念館摩周丸を発見!
昔は函館駅から桟橋で青函連絡船に乗り込んだことを思い出します・・・


摩周丸は、八甲田丸・大雪丸・羊蹄丸・十和田丸・空知丸・檜山丸・石狩丸とともに、青函連絡船の最後になる航海を実際に飾った一艘です。

青函連絡船記念館「摩周丸」散策開始!








船内には色々な資料が沢山展示して有りました。
戦争中の資料や1954年(昭和29年)9月26日1430人の犠牲者を出した洞爺丸事故の資料など色々と忘れかけていた事を思い出す資料も多かったです。




操舵室


元船員さんが色々と説明してくれました。


無線室

ここも元船員さんが無線について色々と説明してくれました。


モールス信号体験










船上からの景色も綺麗でした♪

函館朝市 函館A級グルメを求めて・・・

2010年 「東海道・陸奥一人旅」 蝦夷地(えぞち)編

函館市民の森駐車場を出発して・・・


函館駅


函館といえば朝市

函館朝市の歴史は・・・
昭和20年
場所 函館駅前広場の隅
概要 戦後函館周辺の農業生産者の一部が換金の必要に迫られ野菜の立ち売りを始める。
当時は組織化された配給ルートも無く闇市の一部として見なされた。

昭和21年
場所 高砂町旧憲兵隊司令部前広場(旧市交通局バスセンター前)
概要 駅前広場から移動し、立売りを路上で設営して、露店の形態で営業していた。

年代 昭和22年
場所 郵政省の空地(現NTTの地面)
概要 立売り露天形態は、衛生・交通等の見地から常に立退きを余儀なくされていた。
渡島農業協同組合連合会の協力援助を受け、東雲町電話局の土地を借用し、生産者と消費者が自然発生的に売買を行った。
この時期より、野店市場が形成される。
函館近郊から、露天商、ガンガン部隊と称される人達が集まり、市場の拡大混乱に陥った。

昭和31年
場所 若松町(現在地)に移転
概要 市と交渉し、支所有地(現在地)1,997平方メートルを取得し移転する。
農家(生産者)所有の市場を持つことで、従来の渡島農業協同組合連合会を渡島蔬菜農業協同組合に改組し、新たに朝市連合会が分岐誕生した。






函館朝市HP参照


今現在では周辺店舗を合わせて約280店舗が連なる歴史の古い朝市です。


昔きた時からはすっかり建物も新しくなり海産物、畜産物、農産物、飲食店と綺麗に配置換えされていました。
個人的には昔の方が市場という感じでで好きでしたが・・・

函館A級グルメを求めて・・・
函館朝市どんぶり横丁へ








色々な飲食店が連なる中・・・
個人的函館A級グルメと言えば


いか刺し定食!


小ぶりですが朝捕れたての真いか(スルメイカ)は絶品です♪
6月は函館沖ではなく松前沖で捕れているみたいです。

函館A級&B級グルメを堪能しました!

「トラピスチヌ修道院 石川啄木小公園」ポタリング

2010年 「東海道・陸奥一人旅」 蝦夷地(えぞち)編

函館 B級グルメで車中泊を満喫して・・・

6月22日朝

洗車を終えて函館市民の森駐車場に到着。
自転車を降ろしてポタリング開始♪








市民の森をポタリングしながらトラピスチヌ修道院へ




函館トラピスチヌ修道院は明治31年にフランスから派遣された8人の修道女が設立した日本初の女子修道院です。


石川啄木小公園


石川啄木像
石川啄木は明治40年(1907年)5月5日に函館に移り松岡蕗堂の下宿に身を寄せる。
その後6月に弥生尋常小学校の代用教員となり、離散していた家族を函館に呼び寄せることが出来ました。
しかし、8月25日、函館市内を襲った大火により啄木は家も職も失い、札幌へ生活の場を移すことになりました・・・
啄木が函館にいたのはわずか4ヶ月足らずだったのですが「死ぬときは函館で死にたい・・・。」と言い残すくらい函館を愛していたようです。
啄木像の後ろに写っている函館山の左の立待岬には「石川啄木一族の墓」があります。

石川啄木小公園を散策していると・・・


テーブル?


写真脚
この上にカメラを置いて撮影する台でした。
観光地にこの台があれば三脚が無くてもみんなで記念撮影が出来ますね!
素晴らしいサービスです!!


せっかくなので記念撮影
(笑)


ポタリングを終えて自転車を車に積んで次の場所へ移動します。


良い場所を見つけたら車を停めて気軽にポタリング出来るように自転車を積載しています。


バイクディスプレイスタンドでリアタイヤをホールドして


タイダウンベルトで軽く固定

これで気軽に車を停めてポタリングが出来ます♪

函館 B級グルメで車中泊

2010年 「東海道・陸奥一人旅」 蝦夷地(えぞち)編

函館フェリーターミナルを出発して・・・


夜の函館の街を少しドライブして・・・


本日の車中泊ポイント


函館市内近郊に道の駅が無いので
漁師さんの仕事のじゃまにならないような漁港の片隅で車中泊をさせて頂きました。

カップラーメンだけではさすがにお腹が空いたので函館といえば・・・


函館名物
ハセガワストア「やきとり弁当」


ハセガワストア店員さんオススメのタレ味


やきとり弁当通の食べ方

「やきとり弁当誕生秘話~こうしてやき弁は生まれた」
1978年のある夜半
当社 長谷川文夫 会長が自らレジを打っているときに、店の酔客が・・・
「お弁当ないの?」とご来店。当時、店内で作っていたおにぎりの「ごはん」と「のり」
「お酒のおつまみに」と焼き始めていた「やきとり」この3つを組み合わせてとっさに作ったのが始まりとか。
その後、材料の吟味ややきとりを焼く店舗の改良を重ねて・・・
シンプルかつ他に類をみない「やきとり弁当」が誕生、そしてお客様に育てていただき今日に至るのです。

「豚」なのに「やきとり」?
北海道の道南エリアでは、一般的に「やきとり」というと豚肉のことを指します。
道南地区は養豚場も多く、鶏より豚が安価に手に入りやすかったことが、その一番の理由といえるかもしれまん。
函館では「やきとり」を注文すると普通に「豚精肉」がでてきますし、それを町の人は普通のことと思っています。
鶏のやきとりが欲しい時は「やきとり 鶏肉で」と注文するのが何の疑問もない普通のことなのです。
「やきとり屋さん」の雰囲気を味わいながら、エネルギー源としてより有効な豚肉を食べる。
そんな習慣が道南エリアで広がっていったと言われています。

ハセガワストアHP参照

やきとり弁当を美味しく頂きビールを飲んで就寝・・・




清々しい漁港の朝




東北地方では雨だったので車とMTBを洗車をして函館市内散策スタートします!

「東海道・みちのく一人旅」無事に帰ってきました!


「東海道・みちのく一人旅」無事にニーズ札幌へ帰ってきました!
合計走行距離2520kmの旅
写真を整理して旅の経過をご紹介していきます。

2010年 「東海道・陸奥一人旅」 東海道編
2010年 「東海道・陸奥一人旅」 陸奥(みちのく)編
2010年 「東海道・陸奥一人旅」 蝦夷地(えぞち)編
※長旅でしたので上記3カデゴリに分類しました。

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