日本最北端の一人旅

日本最北端の一人旅 「稚内珍百景NO.001 危ないエスカレーター」

ハイエースフェアin旭川トヨペット稚内店終了後に・・・
約18年ぶりの「日本最北端の一人旅」で見つけた珍百景!

日本最北端の一人旅 「稚内珍百景NO.001 危ないエスカレーター」


稚内市内のとある飲食店ビルのエスカレーター


その先にはいったい何が!?

(゚o゚;) ナニコレ!!




!?(゚〇゚;)マ、マジ...


降り口が壁!!!!!






エスカレーターは動いていないのでご安心を!
(爆)

日本最北端の一人旅 「オロロンライン」

ハイエースフェアin旭川トヨペット稚内店終了後に・・・
約18年ぶりの「日本最北端の一人旅」


宗谷地方の散策も終えて・・・


海岸線のオロロンラインで札幌へ帰ります。
※写真は天塩町北の28機の風車群です


オロロンラインとは
2本の国道と1本の道道で結ばれる、小樽から稚内までの沿海ルートに加え、天売、焼尻、利尻、礼文の4離島の航路のことをいいます。

このラインを広域観光地として18市町村が手を携えることができた要因は、なんといっても札幌市と留萌市を結ぶ国道231号線の、悲願の開通が実現できたことです。

このルートの一部、厚田から増毛町間の46キロメートルは永い間「幻の国道」といわれたほど難攻不落のルートでした。
この間に取り残されていた雄冬(おふゆ)地区は陸の孤島と呼ばれ、交通網は雄冬(おふゆ)港と増毛港を結ぶ一日一便の海上航路のみとされていたのです。
昭和56年11月、最も難所を極めた雄冬(おふゆ)岬トンネルの完成で全線開通。
しかし、その40日後、不幸にも山崩れが発生し、トンネルの一部損壊、再び陸上交通の不通を余儀なくされました。
その2年後の昭和58年に復旧工事が完成、改めて国道231号線の全線完全開通に至ったのです。
総工費180億円、昭和33年着工以来四半世紀をかけた難工事でした。これによって国道231・232号線は、南北1本に結ばれたのです。

日本海サンセットビーチに沿って連なる4市11町1村の16エリアを、最北に貫くオロロンラインと定めました。

道中の道の駅に寄りながら札幌へ向かいます!


天塩郡遠別町
道の駅「富士見」
レストランや売店が有る充実した道の駅です。
ここで後ろのリクライニングシートで地図を見ながら通過する道の駅を調べます!


今までの珍道中で調べている資料は最寄の観光案内所で無料でもらえる観光ガイドと、日本RV協会出版「道の駅案内全国地図」、三栄書房出版「くちコミドライブマップ北海道」の2冊を見ながら旅をしています。

日本RV協会出版「道の駅案内全国地図」
には全国地図の他に全国の道の駅917ヶ所のデーターや日帰り温泉マップが収録されていて道の駅の車中泊には便利な1冊です。

三栄書房出版「くちコミドライブマップ北海道」
には北海道の観光スポットが掲載されていて旅行のスケジュールを考えるのに便利な1冊です。

その他の地域の細かい観光地は最寄の観光案内所で無料で配布している観光ガイドが有効です。

日本RV協会出版「道の駅案内全国地図」はニーズ札幌にも在庫が有りますので興味がある方はお問い合わせください。
「道の駅案内全国地図」
¥1,155(税込)



道の駅を調べていたらリアヒーターの程よい暖かさで・・・

(´ρ`)ぽか~ん

1時間ほど熟睡していました・・・

仮眠をしてスッキリしたので気を取り直してスタートします!




苫前郡初山別村
道の駅「☆ロマン街道しょさんべつ」
インフォメーション
国道232号線から海側に位置する初山別村最大の観光スポット「岬台公園」が道の駅となりました。公園内には天文台を始め温泉、レストラン、ゴーカート場、パークゴルフ場など様々な施設が集合していて家族みんなで楽しめます。
毎年6月下~7月上頃(要確認)に星まつりが開催され、8月の第1週土・日曜日には岬まつりが開催されます。
岬まつりでは、土曜日に花火大会、日曜日には歌謡ショーが行われています。


しょさんべつ温泉「岬の湯」
国道から少しそれた場所に有る道の駅です。
オートキャンプ場や公園も整備されていますが道の駅と言うより温泉の駐車場という感じです。


苫前郡羽幌町
道の駅「ほっと♡はぼろ」
インフォメーション
国道232号沿いに位置する道の駅「ほっと・はぼろ」のメイン施設「はぼろ温泉サンセットプラザ」は真っ白な豪華客船をイメージし、天然温泉大浴場・露天風呂・屋外プールや地元特産品を扱う物産店などの施設があり、また7階展望ラウンジからは、天売島、焼尻島など日本海が一望でき、心も体もリラックスできます。
隣接する「はぼろバラ園」では、珍しい北方系バラなどが咲き誇り、「北海道海鳥センター」では、天売島の海鳥のことが全てわかる展示室や研究施設があります。


道の駅ははぼろ温泉サンセットプラザ内に有りホテルの駐車場の一部を道の駅として開放しているという感じでした。


ははぼろ温泉サンセットプラザにはレストラン、プール、日帰り温泉等が充実しているので道外ナンバーの車中泊の車が多数停車していました。
車中泊人気の道の駅なんですね!


苫前郡苫前町
道の駅「風Wとままえ」
インフォメーション
国道232号線沿いに位置する道の駅「風Wとままえ」のメイン施設である「とままえ温泉ふわっと」はコンクリートの素材を活かした壁とドーム球場を思わせる白い屋根が特徴で、温泉、露天風呂、レストラン、ラウンジ、特産品売店やB&G温水プールなどさまざまな施設があります。
ラウンジや露店風呂からは日本海に浮かぶ天売島・焼尻島も一望することができ、心も体もリラックスできます。
隣接する夕陽ヶ丘オートキャンプ場、ホワイトビーチ、未来港公園は家族連れにはとても人気のアウトドアスポットです。

道の駅というより温泉施設の駐車場という感じですが、日帰り入浴は22:00まで、バーラウンジは23:00までと普通の道の駅の大半が夕方17:00~18:00で閉まってしまう中、少し遅めの到着でもゆっくり休める時間まで営業しているのが嬉しいですね!


苫前町には風力発電所が多数!
圧巻です!


道の駅「おびら鰊番屋」
インフォメーション
昭和30年まで日本海に押し寄せたという鰊。
この道の駅「おびら鰊番屋」には、当時の網元の栄華の様子を今に伝える歴史的建造物・旧花田家番屋が敷地内にあり、駅自体もこの鰊番屋にあわせて、古い木造の建築物風に仕上げてあります。
ここでは鰊番屋の歴史に触れることができるほか、日本海の新鮮な海の幸を味わえる食堂が自慢。
また2階は団体客向けに広い板の間になっており、大人数の会食にも対応できます。


営業時間も終わっていて停まっている車は数台・・・


旧花田家鰊番屋 (きゅうはなだけにしんばんや)
明治38年頃に建築され、道内で現存する番屋では最大の規模を有し、当時雇い人が200人を超えた大鰊漁家。
創立は一説に明治29年といわれていましたが、今時の解体調査の結果仏間大引下の束に書かれた墨書やヤン衆寝台羽目板の落書から親方生活部分の内部造作は明治38年(壁紙下張の新聞紙の日付が明治37、38年)頃と考えられ、ヤン衆生活部部分はこれより2~3年早くできたものと推定されます。
故花田作三氏の生前の話によれば、明治29年頃山林を入手伐採、この頃から製材等に着手したものと思われます。
この番屋は、すべて地元「大椴」の山から切りだし三半船で海上を運び、木挽の手によって製材されたものです。


道の駅「おびら鰊番屋」から札幌までは道の駅が無いので道中の雄冬の海岸線で休憩。




日本海!って感じの海ですね
(笑)


石狩市厚田区
夕日の丘駐車場
道の駅では無いのですが駐車場に隣接する観光案内所「あいロード夕日の丘」
では厚田そばやソフトクリームなどのメニューのほか、厚田産野菜、手作りみそ、トマト・しそジュースなどの地場産品も販売しているようです。

夕日の丘駐車場では天候は悪かったのですが少し雲が晴れて夕日が見えました♪




さすが夕日の丘駐車場!(笑)


無事に札幌に到着しました。

走行距離377.7km
43.77リッター 
燃費8.629km

約18年ぶりの「日本最北端の一人旅」
合計走行距離808km
合計ガソリン95.77リッター
平均燃費8.436km

NEEDSBOXトランスポーターを使った旅はガソリン代はもちろんかかりますが、快適な車中泊が可能ですので宿泊予約の面倒や宿泊費を抑えて、ご当地の美味しいグルメを堪能して、車で色々な観光スポットを自由気ままにドライブしたり、天候が良ければ観光スポットで自転車を下ろしてサイクリング♪♪というのも楽しめるので色々な発見も有り楽しい旅をする事が出来ます♪

今回の一人旅ではアイドリングを極力しないようにしましたが、車中泊や休憩等でのアイドリングをもう少し止めると燃費の向上に繋がると思います。
サブバッテリーは環境にもお財布にも優れた車中泊に必項アイティムですね!

上記システムを搭載しておくと、エンジンを停止したままDVD鑑賞や室内照明を使う事が出来る他に、冬はFFヒーターを点けたまま、夏は扇風機を回したまま就寝する事が可能になるので、環境、騒音、ガソリン代・・・と高価な装備ですが車中泊を頻繁にする方だと長い目で見るとガソリン代を非常に節約できるアイティムです。

皆様の最寄の地域でも色々な観光スポットが有ると思いますのでその地域の歴史やご当地グルメを堪能してはいかがでしょうか♪

約18年ぶりの「日本最北端の一人旅」 完

日本最北端の一人旅 「宗谷の歴史」

ハイエースフェアin旭川トヨペット稚内店終了後に・・・
約18年ぶりの「日本最北端の一人旅」


宗谷丘陵のドライブも終えて・・・


間宮林蔵渡樺出港の地へ

間宮林蔵の銅像は宗谷岬に有り、色々な資料は稚内副港市場に展示して有りました。

■間宮林蔵(まみやりんぞう)
世界地図にただ一人日本人の名を残した探検家です。
1805 年にノシャップ岬にロシア人が上陸するという事件があり、幕府(ばくふ)は樺太を調べることに力を入れました。
それまでも調べていたのですが、知られていないことも多かったため、 1808 年、幕府は間宮林蔵と松田伝十郎(まつだでんじゅうろう)の二人に樺太へ行くように伝えました。
かくして 1808年4月13日に林蔵は伊能忠敬(いのうただたか)からもらった正しい地図を作るための羅針盤という道具を持って、伝十郎とともに宗谷(そうや)から出発しました。
樺太の一番南から二手にわかれて、林蔵は樺太を東から、伝十郎は西から北上しました。
6月22日に再び合流した二人はラッカという場所まで行ったところで、これ以上先に進むのはむずかしいとしてラッカより北には行きませんでした。
このときに樺太は島じゃないか、と思っていたそうです。
しょうがなく宗谷に帰ってきた林蔵は一月もたたないうちに7月13日に幕府より「樺太の東から行って、一番北を調べなさい」と言われアイヌの船に乗って単身で出発し、林蔵は幕府に言われたこととは反対に、伝十郎と同じく西から北上、トンナイ(旧真岡付近)で冬を越し、翌年5月に樺太を北上、樺太北端のナニオーまで踏査して樺太が島であることを確認しました。
この時の探検地図が、後にシーボルトによって紹介され、樺太北部と大陸の間が「間宮海峡」と命名されたのです。
林蔵はその後も大陸へ渡り、ロシアのことや中国のことを調べました。
こうして一年半も樺太を調べた後、さらに一年間かかって幕府へ調べた結果を伝えるために樺太の地図と「北夷分界余話(ほくいぶんかいよわ)」と「東韃紀行(とうだつきこう)」という二つの本を書いたのでした。



■間宮林蔵渡樺出港の地
宗谷岬から西へ3キロメートルの第2清浜地区に、「間宮林蔵渡樺出港の地」があります
彼の著書“東韃(とうだつ)紀行”でもただ“宗谷”とあるだけで漠然としています。
しかし、林蔵の墓石が見つかったことや、アイヌの「林蔵祭」伝承などから、現在の第2清浜地区と考えられます。
文化5年4月13日、幕府から命を受けた林蔵(当時29歳)は、松前奉行支配調役・松田伝十郎とともに、第1次樺太探検に出発しました。
このとき、林蔵は郷里から持ってきた墓石を海岸に建て、探検への覚悟のほどを示したといわれています。


続いて宗谷の歴史公園へ移動


■宗谷護国寺跡
江戸時代、徳川幕府は新しい寺院の建立を禁じていましたが、享和2年(1802)蝦夷地に5ケ寺の建立を許可し、文化元年(1804)に有珠善光寺・様似等樹院・厚岸国泰寺の3寺が建てられた。
安政2年(1855)幕府は蝦夷地を再直轄し、北蝦夷地警備のため宗谷は秋田藩に割り当てられ藩士が駐屯するようになった。
安政3年、有珠善光寺七代住職性誉仙海は宗谷場所請負人藤野家の宗谷支配人粂屋八右衛門と相談し宗谷に浄土宗の一寺を開山し、安政6年に建立された。寺号を泰平山松寿院護国寺と称し、幕府直轄の寺院として、明治の半ば頃までは、西は利尻、礼文、増毛、東は網走まで遠くは樺太までにも死者供養のため寺僧が巡回していた北蝦夷地の唯一の寺でした。
明治17年廃寺となり明治45年の再建のさいに焼失しました。


■旧藩士の墓
江戸幕府が外口から、今の北海道やサハリンを護るため、最初に蝦夷地直轄を決行したのは文化4年といわれています。
ただ単に寒さに強いはずという理由で、本州最北端の津軽藩士がまず、宗谷に派遣されましたが、厳冬のため、多数の越冬死者を出したといいます。
そして翌文化5年に、同じ東北の会津藩士1,558名が交代要員として派遣され、会津藩士は、宗谷のほかに樺太、利尻、礼文にも分駐し、宗谷には587名が残ったとされています。
宗谷公園に安置されている墓は、近くの海岸に点在していたものを明治時代に村民の手により1カ所に集め、さらに昭和32年現在地に移されたものです。
以来、地元では毎年慰霊祭をとり行い、この地で果てた旧藩士の冥福を祈っています。


■津軽藩兵詰合の記念碑
幕府がここ宗谷に最初に派遣したのは津軽や会津等東北の藩士でした。
悲惨を極めた派兵も文政4年(1821年)に蝦夷地の幕府直轄が廃止されたことに伴い一応打ちきられましたが、その後安政2年(1855年)に再び幕府から藩士が派遣されました。
しかし、この時代にはクワエヒル(ストーブの原型となったもの)が造られたり、フランケット(毛布)が使用されるようになったこともあり、妻子を連れて越冬できる程備えはできていたようです。
幕府が再び北辺の地で越冬を命じた時には、宗谷では多くの津軽藩士が厳しい寒さのため、水腫病などの病気で命を失いました。
日本での歴史を刻みはじめていたコーヒーが水腫病に対して効果があるといわれ、幕府は藩士たちにコーヒーを配給しました。
コーヒーは薬として大切に飲まれ、治療に使われたのですが、コーヒーを飲むことができずに、亡くなった藩士たちを悼んで津軽藩士の故郷である弘前市の有志が中心となり藩士たちを悼み建てられたのが津軽兵詰合の記念碑です。


■宗谷厳島神社
正確な建立年代は不明ですが、現存する青銅製鰐口の銘に表面「奉納 天明寅壬月吉日 宗谷御場処」、裏面「奥州南部大畑 武川氏敬白 支ハイ人向井金蔵」とあることから、天明2年(1782)以前の建立とみられます。
祭神は市杵島姫命(いつくしまひめのみこと)という水の女神です。
神社のいわれについては、更にさかのぼり、室町時代の永正12年(1515年)、松前藩の祖先武田光広が「夢」のお告げを信じ、蝦夷地海浜の要衝に、「弁財天」を祭るように命じたことから、その子孫である蛎崎慶広が、永禄4年(1561年)、姓を“松前”とい改めたおり、宗谷の地にも「弁財天堂」を寄進したのがそのはじまりとされています。
同神社は宗谷の歴史そのままに幾度かの変遷を経て明治を迎えました。明治3年、開拓判官竹田信順が厳島神社を尊崇し、社殿を修理し現在の形に近づけたと云われています。
江戸幕末期の宗谷場所を描いた、宗谷絵図や宗谷孟仙里図などの絵図資料の中には南を向いた厳島神社が描かれ、神殿・鰐口・欄間彫刻・懸額・懸額・木製獅子頭・鳥居が残されています。

日本最北端の地の色々な歴史の勉強になりました。

日本最北端の一人旅 「宗谷丘陵」

ハイエースフェアin旭川トヨペット稚内店終了後に・・・
約18年ぶりの「日本最北端の一人旅」


宗谷岬平和公園の見学を終えて・・・








旭川トヨペット稚内店佐藤店長オススメの絶景スポットの宗谷丘陵へ

宗谷丘陵(そうやきゅうりょう)
宗谷丘陵は、宗谷岬南部に広がる標高20メートルから400メートルまでのなだらかな丘陵地帯。
地形は、2万年前の氷河期に形成されたものといわれ、北から南に向かい標高が高くなり、緩やかに起伏しているが、深い谷はほとんど存在しない。
明治期の山火事によって樹木が消失した。
気温が上がらず強風が吹くため、現在も樹木が回復していない。
そのため、樹木にさえぎられることなく、肉眼で周氷河地形を見ることができる数少ない場所となっている。


宗谷丘陵には日本最北端のフットパスコースも有るのでサイクリングをする予定でしたが雨風が強く断念・・・
車でドライブします♪


ドライブする際に鹿じゃなく牛に注意!
と言われていたのですが・・・


牛・牛・牛・・・・


カメラを向けるとちゃんとカメラ目線(笑)


宗谷黒牛(そうやくろうし)
北海道稚内市に存在する宗谷岬牧場で生産される日本最北のブランド牛肉の銘柄。
同じ北海道でもあまり聞いたことが無いと思ったら、生産規模は年間1000頭程度と非常に希少で、宗谷管内のほか首都圏などで取引されているようです。


沢山の宗谷黒牛が宗谷丘陵で放牧されています。
北海道は被害は無いですが、同時期に宮崎では口蹄疫の被害で殺処分されているんだと複雑な思いでした。












57基の風力発電施設も圧巻でした。


天候が悪く見晴らしもあまり良くなかった状況でも同じ日本とは思えない絶景でした。
オススメ絶景スポットです!

日本最北端の一人旅 「宗谷岬平和公園」

ハイエースフェアin旭川トヨペット稚内店終了後に・・・
約18年ぶりの「日本最北端の一人旅」


宗谷岬散策を終えて・・・




宗谷岬のすぐ上の丘に有る宗谷岬公園へ
ここには色々なモニュメントが多数立ち並んでいるのでその見学に・・・

その前に

地元稚内の人もお勧めするご当地グルメを頂きます♪


元祖帆立ラーメン 間宮堂




店内には有名人のサインが沢山ありました!


ホタテらーめん塩味
個人的にはホタテが入っている海賊系のらーめんはあまり好きではないのですが、間宮堂さんのホタテらーめんはホタテの味はきつくなくあっさりして美味しいらーめんでした♪
ホタテカレーも人気メニューとの事です。
観光客だけじゃなく地元の方も沢山来店している人気らーめん店です。

腹ごしらえも終わり宗谷岬公園散策開始!


宗谷岬灯台
日本最北端の灯台で歴史は古く、道内では納沙布岬(根室)、日和山(小樽)に次いで、3番目に建てられ、明治18年9月25日に初めて点灯されました。
日本の灯台50選にも選ばれています。


大岬旧海軍望楼跡(おおみさききゅうかいぐんぼうろうあと)
1902年(明治35年)に旧帝国海軍により国境の防備として建造された。
稚内市は数回にわたる大火で古い建造物を消失しており、大岬旧海軍望楼跡は、稚内市内で現存する唯一の明治時代の建築物。


宗谷海域海軍戦没者慰霊碑
この碑は、望楼防備隊を含む宗谷防備にあたり殉職した人々の鎮魂のために建てられました。
特に、終戦直前の昭和20年7月、米潜水艦の魚雷攻撃を受けた稚泊航路連絡船「宗谷丸」を守るため、身代わりとなって爆沈した望楼防備隊所属の「第112号海防艦」の乗組員152名の霊を慰めるため、旧防備隊々員から寄せられた寄付により昭和55年9月に建立されたものです。


平和の碑
太平洋戦争中の昭和18年10月、宗谷岬沖で日本海軍によって撃沈されたアメリカ海軍潜水艦「ワフー号」の乗組員80名と、ワフー号によって日本海で沈められた日本商船5隻の犠牲者690名を慰霊するため、戦後50年の年にあたる平成7年9月に日米合同で建立されました。
日米合同で慰霊碑を建立するのは、日本では初めてのことであり、平和を願う両国民の気持ちが込められています。


祈りの塔
昭和58年9月1日未明、世界を震撼させた”大韓航空機撃墜事件”が眼前のサハリン西海域で起きました。
「祈りの塔」は2周忌にあたる昭和60年9月1日に、遭難者の慰霊と世界の恒久平和を願い、遺族会の資金と、稚内市をはじめとする全国からの浄財をもとに、サハリンを臨む宗谷岬の高台に建立されたものです。
大韓航空機撃墜事件(だいかんこうくうきげきついじけん)は、1983年9月1日に大韓航空のボーイング747が、慣性航法装置 (INS) への入力ミスが原因でソビエト連邦の領空を侵犯したために、ソ連防空軍の戦闘機により撃墜された事件。
乗員乗客合わせて269人(日本人29人)全員が死亡した。

ここの公園は宗谷地方や日本の歴史を見つめ直す多数の建造物が有りました・・・

日本最北端の一人旅 「日本最北端の地」

ハイエースフェアin旭川トヨペット稚内店終了後に・・・
約18年ぶりの「日本最北端の一人旅」


日本最北端のガソリンスタンドで給油後・・・


日本最北端の地「宗谷岬」へ到着しました!



気温も低く雨に強風・・・

傘も折れましたが心も折れそうになり車の中で数十分沈黙・・・
↑実話(笑)


フィッシングトランポのレイアウトとしてカッパと長靴を積んであったのを思い出して日本最北端の散策開始!




日本最北端の地 宗谷岬
北緯45度31分22秒
悪天候の為、サハリンは見えませんでした・・・(残念)


間宮林蔵の銅像
札幌に帰ってきてから知ったのですが
銅像の右側に写っている岩礁の弁天島(別名トド島)が現在日本の実効支配が及ぶ日本最北端との事・・・
北緯45度31分35秒
その差13秒!
日本最北端へ行ってきたと思ってたので何か少し残念な思いです・・・

ちなみにここでマメ知識!
日本政府が領有権を主張する範囲における最北端の地は、北方領土・択捉島にあるカモイワッカ岬との事です。


岬周辺にはお土産屋さんや飲食店が沢山です。


その中でも「流氷館」と書かれているお店に入ってみました。


「流氷館」は冷蔵庫の入り口!?


-11.8℃・・・


中には流氷と剥製が沢山展示されていてちょっと怖い不陰気だったので一瞬で退散・・・

嵐の中の宗谷岬散策も終了!


硬質ロンリウム床貼り加工をしているので濡れたカッパや長靴もそのまま収納OKです♪

日本最北端の一人旅 「日本最北端のガソリンスタンドで給油」

ハイエースフェアin旭川トヨペット稚内店終了後に・・・
約18年ぶりの「日本最北端の一人旅」


「稚内ご当地グルメ・車中泊」を堪能した翌朝・・・


日本最北端のガソリンスタンド「宗谷岬SS(安田石油)」へ
稚内市内でガソリンランプが点灯しましたがどうしても最北端で給油したかったのでエコ運転でたどり着きました!
↑けして真似はしないで下さい(笑)

走行距離430.3km
52リッター 
燃費8.275km


本日の宗谷地方は雨と風が凄く・・・
この写真を撮影した時に買ったばかりの傘が壊れました(悲)

日本最北端で給油したいという気持ちだけじゃなく、他に理由が・・・


日本最北端給油証明書とホタテの貝殻キーホルダーをゲットする為でした!


裏には給油した日のスタンプとホタテには手書きで交通安全の文字が書いてあります♪

日本最北端の一人旅 「稚内ご当地グルメ・車中泊」

ハイエースフェアin旭川トヨペット稚内店終了後に・・・
約18年ぶりの「日本最北端の一人旅」へ


稚内副港市場を1時間程散策して・・・


飲食店、トイレ、コンビニも有りましたので稚内副港市場付近で車中泊する事に決定。
同じ駐車場には十数台程が車中泊をしていました。


遮光パット、プライバシーカーテン、シェラフを準備して夜ご飯へ!


稚内副港市場敷地内に有る「波止場横丁」


昭和を感じさせる街並みで数件の飲食店が連なっています。
せっかく稚内へ来たのでご当地グルメを探します!


ロシア料理「ペチカ」さんへ
ご当地グルメでは無いですが最北端なので・・・(笑)
※「ペチカ」とはロシア語で暖炉のこと。


人生初のロシア料理なので何を注文して良いかわからず・・・
人気NO1コースメーニューを注文しました。


・ピロシキ(パン)
パンの中に豚肉や野菜が色々と入っていてロシア版のハンバーガー?
・ヴィニクレット(サラダ)
ヴィニクレットは日本ではあまり食されていないビーツという野菜とキャベツのサラダとの事。


・ボルシチ(スープ)
トマト風味のスープ?


・スープペリメニ
肉シュウマイ?


・シャシリーク
ラム肉の串焼き?

ロシア料理はどんな味がするのか少し心配でしたが、初めて食べるような気がしなく美味しかったです♪


兵頭ニーナさんがペチカ店長として得意の料理の腕を振るいながら、日々の店内ライブにてその歌声を披露しているとの事で入店した時間が遅くライブを聴くことが出来なくて少し残念でした・・・
兵頭(ひょうどう)ニーナさんとは


お店を出ると他のお店からは地元の方と観光客の方が楽しそうに雑談している声が聞えてきました♪
昔はこんな感じで夜を過ごしていたのかな・・・
と何か映画を見ているような1コマでした。


少し港を散歩して・・・


今日の出来事のBLOGをアップしようと思いましたが1件上げたところで・・・

(´ρ`)ぽか~ん

気がついたら朝でした・・・(苦笑)

トランポで気ままに日帰り温泉に入浴して、ご当地グルメを堪能して、車中泊はお財布にもスケジュールにもやさしい遊び方です♪



ここでマメ知識!

稚内の色々な観光パンフレットに掲載されているキャラクター


稚内観光協会のイメージキャラクター「出汁之介」です。
稚内の抜海に立ち寄るアザラシが、稚内近海で採れる利尻昆布の美味しさの虜となり、あまりに食べ過ぎたため体の一部が昆布になってしまった架空動物です。
プロフィール
身長 とてもでかい
体重 言いたくない
趣味 食事
好物 稚内近海で採れる利尻昆布・ホヤ・タラ・タラバガニ・毛ガニ・ホッケ・ホタテ・ウニ・ツブ・ミズダコ・カレイ・カスベ・ 本鱒・ヤリイカ・北海シマエビ・ズワイガニ・ソイ・鮭
ライバル 2009わっかないミス流氷
住み家 稚内市中央3丁目9番13号 稚内観光協会内

出汁之介(だしのすけ)というネーミングと手足が昆布という「ゆるキャラ」に思わず笑ってしまいました・・・(笑)

日本最北端の一人旅 「稚内副港市場」

ハイエースフェアin旭川トヨペット稚内店終了後に・・・
約18年ぶりの「日本最北端の一人旅」へ


約2時間程の稚内散策を終えて・・・







稚内副港市場へ
ここには、観光案内、温泉、レストラン、居酒屋、市場、松坂大輔スタジアムなどなど色々なお店が集合した複合施設でした。
詳しくは稚内副港市場HPをご覧ください。

車を駐車して稚内副港市場1Fを散策・・・


北海道第1号!!
みなとオアシスわっかない


施設内はフリースペースが有り、車中泊をしている人やお風呂上りの人がビールやジュースを飲んで楽しんでいました。


観光情報コーナーには








宗谷管内やサハリン(旧樺太)の観光情報や歴史の資料が多数展示されています。


樺太ノスタルジーにはサハリン(旧樺太)にあった旧豊原中学校の教室を再現されていました。


教室内には樺太の情報も多数展示。


稚内ノスタルジーには稚内の昭和をリアルに再現した町並みが有りました。










ALWAYS 三丁目の夕日に出てきそうな街並でした!


港ノスタルジーにはかつての樺太への入り口、稚内港駅舎を再現。


色々な昔の資料も多数展示されています。


木製の改札口


ダルマストーブ


ここでマメ知識!
■国内初のストーブが宗谷で誕生
製造の発端となったのは、道北の宗谷(そうや)地方へ転勤を実際に命じられた梨本弥五郎(なしもとやごろう)という人。そしてもう一人、武田斐三郎(たけだあやさぶろう)という人。この人は五稜郭設計で有名な学者。
梨本は、宗谷へ旅立つに際し、寒さの厳しさが不安の種でした。それでストーブのことを知っていた武田にストーブを造ってもらいたい旨、箱館奉行に申し出ました。武田は箱館奉行の村垣淡路守(むらがきあわじのかみ)の命令により、ストーブの視察に出かけ設計し、箱館の職人源吉が製造を引き受け、鋳物職人の孫左衛門、及び瓦師利三郎が製造を担当しました。
職人は製造にてこずりました。道内各地に送るために、22台の製造が必要だったにもかかわらず、作業はなかなか進まなかったようです。しかもようやく完成したストーブも、冬のシケで箱館をたつことができません。
冬も本番に入る時期で、すでに家族とともに宗谷に移動していた梨本はすぐに必要だったのですが、箱館からストーブが届かないのでは困り物です。そこで、地元宗谷のアイヌの鍛冶職人景蔵に製造を頼むことにし、以後ストーブが各地に広まっていきました。
北海道ぷちがいど参照


すでに市場は閉まっていたのですが、ここだけで宗谷地方の観光、歴史、買物の全てを堪能できる施設だと思います。

約1時間ほどの散策でしたが一番心に残っている資料が・・・


「九人の乙女」の物語
真岡町(現ホルムスク)は、人口約2万人で樺太西海岸南部に位置し、北海道の各港との定期船も絶えなかった平和な港町でした。
昭和16年(1941)太平洋戦争(第二次世界大戦)に突入することになりましたが、日ソ中立条約(領土不可侵・中立維持を約束した条約)が締結されていたこともあり、国境での紛争はほとんどありませんでした。

しかし、昭和20年(1945)8月9日の朝、樺太国境警察がソ連軍の不意の攻撃を受け、40年間にわたる国境の静寂が破られたのです。
ソ連軍による進撃・砲撃は、国境を接する町から次第にその範囲を拡げ戦況は悪化する一方で、樺太兵団は、中央国境を突破するソ連軍を側面から支援する部隊が真岡地区にも上陸するものと判断、この地区の守りを固めようと努力を続けていました。
この非常事態に、老人、子供、女性、病人等を優先して島民の緊急疎開が開始されました。

そして8月16日、上田・真岡郵便局長は上司から
「女子職員は全員引き揚げるよう、そのため業務が一時停止しても止むを得ない」
との命令を受けました。
ほっと安心すると同時に、皆その知らせを喜んでくれるだろうと思っていた上田局長でしたが、意外な事に局員からは
「全員、疎開せず局にとどまると血書嘆願する用意をしている」
と告げられました。
上田局長はソ連軍の進駐後起こるであろう悲惨な状況を話し説得したが応じてもらえなかったといいます。
きっと彼女らは交換業務の重要性を認識し、その責任感・使命感を健気(けなげ)なほど感じていたからこそ、このような覚悟をしたものなのでしょう。
友人や知人が次々と北海道へ向けて避難を始める中で、多くの女子職員が職場に踏みとどまり交換作業に従事していました。

そして、迎えた8月20日の朝6時頃、真岡は身にまといつくような濃霧でした。
霧の中にぼんやりと見える埠頭倉庫のトタン屋根は霧にぬれてにぶく光り、疎開する島民を北海道へ輸送する船や北部から難を逃れてきた漁船等がぎっしりと岸壁についていました。
臨海地区を手中に収めたソ連軍は、続いて山の手に向かって戦線を拡大し、各所に砲撃による火の手が上がり、黒煙がようやく霧の流れた空を覆い、火の粉が風下一帯に降り注ぎました。最後の時が迫った恐怖から人々は裏山の芋畑やクマザサの茂る野をはうようにして尾根を越え、ある者は鉄道のレール伝いに逃げまどいました。
真岡郵便局では早朝5時半過ぎ、真岡の北約8kmの幌泊から、「ソ連の軍艦が方向を変え、真岡に向かった」との連絡を受けた高石ミキ電話主事補が、仮眠中の宿直者全員を交換台に着席させ、関係方面への緊急連絡を行うとともに郵便局長にこの旨、電話で報告を行いました。
郵便局は場所的にも戦火に巻き込まれる位置にあり、交換室にも弾丸が飛び込むなど、極めて短時間のうちに危機は身近に迫っていました。
しかし、緊急を告げる電話回線を守り、避難する町民のため、またこれらの状況を各地に連絡するため、最後まで職務を遂行したのです。

同じ樺太にある泊居郵便局長は、当日の状況をこう話しています。
午前6時30分頃、渡辺照さんが、
『今、皆で自決します』
と知らせてきたので
『死んではいけない。絶対毒を飲んではいけない。生きるんだ。白いものはないか、手拭いでもいい、白い布を入口に出しておくんだ』
と繰り返し説いたが及ばなかった。
ひときわ激しい銃砲声の中で、やっと
『高石さんはもう死んでしまいました。交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら』
という渡辺さんの声が聞き取れた。
自分と居合わせた交換手達は声を上げて泣いた。
誰かが、真岡と渡辺さんの名を呼んだが二度と応答はなかった」と語っています。

高石さんの知らせで自らも郵便局にかけつける途中、腕に銃弾を受けてソ連兵に連行されてしまった真岡郵便局長は、数日後ソ連軍の将校の許可で局内に立ち入ることができました。
その時の様子を、同局長は
「9人は白っぽい制服にモンペをはいており、服装はみじんも乱れていなかった。また、交換台には生々しい数発の弾痕があった。
さらに、睡眠薬の空き箱があったことは見苦しくないようにするため、睡眠薬を飲んだあと、青酸カリを飲んだのであろうが、息絶えるまで送話器に向かって呼びかけていたようだ。」
と語っています。

彼女達は、ブレストを耳にプラグを手に握りしめ、最後まで他局からの呼び出しに応ずるために交換台にしがみついたまま倒れていました。
遺体の確認に立ち会ったソ連軍将校も、悲惨な室内の状況を目の前にして、胸で十字架をきって黙祷したといわれています。

当日交換業務を行っていた9人の中で最年長だった高石ミキさんは、殉職の日の前日、北海道に疎開する母を港で見送った時、“いざとなったらこれがあるから大丈夫”と胸をたたいて見せました。
それが青酸カリだと知った母親は、顔色を変えたといいます。
それほど、明るくて物事をはきはき言う人でした。

志賀春代さんは、妹と2人で同じ職場に勤務しており、日頃から“いざというときは、自分が職場を死守するから、生きて内地に帰りなさい”と妹に言っていた責任感と気の強い人で、当日も非番にも関わらず、急を知って局に駆けつけた程で、交換技能も抜群の人でした。

殉職した9名の交換手達はいずれも10代の後半から20代前半の若い女性達です。
通信確保の任務を果たし、最後の言葉を残して9人の乙女達は、若き青春に訣別して行ったのです。



今回このBLOGを書いている当日の北海道新聞に
『映画「氷雪の門」36年ぶりに全国公開 樺太・真岡での集団自決描く』
終戦直後の樺太・真岡(ホルムスク)で旧ソ連軍の砲火が迫る中、郵便局に残り、自ら命を絶った9人の女性電話交換手を描いた1974年制作の映画「樺太1945年夏 氷雪の門」(北海道新聞社など後援)が、17日の東京を皮切りに札幌など全国で公開される。36年前、道内では上映されたものの全国的な公開は中止された作品で、関係者の熱意でスクリーンに帰ってきた。<どうしんウェブ参照>
とインターネット上では説明していますが北海道新聞の紙面には「当時のソ連政府による圧力により公開が中止された」と書かれています。

BLOGを書いている当日の新聞にこのような記事が掲載されていたのには何か運命的な感じがする作品ですので映画を見てみたいと思います。
北海道は空襲等も少なく戦争被害が他の地域より少ないような歴史観でしたが、もう一度北海道の歴史を振り返ようと痛感しました。

日本最北端の一人旅 「稚内絶景ポイント」


ハイエースフェアin旭川トヨペット稚内店終了後に・・・


今回18年ぶりに稚内へ来たので、疲れたらすぐに車中泊が出来る仕様に内装レイアウトを変更して、散策しながら札幌に帰りたいと思います。
約18年ぶりの「日本最北端の一人旅」スタート!

旭川トヨペット稚内店スタッフから聞いたオススメポイントへ向かいました。


「天候が良かったら利尻山が見えるけど、今日は天候が悪いから見見えないかも・・・」
と言われましたが旭川トヨペット稚内店から車で約15分くらいの夕日が丘パーキングへ到着。


曇っていましたが利尻島が見えました!


利尻山(りしりざん)別名「利尻富士」も見えました♪






曇っていたので夕日は少し残念・・・
夕日はあきらめて次のポイントへ移動!




野寒布岬(のしゃっぷみさき)
東経141度38分42秒、北緯45度26分58秒


ここからも利尻富士が見えました。


防波堤では釣りをしている人が多数!
打倒Drコースケ!(笑)
で釣り道具を積んできたので久しぶりに釣りをしたかったのですが・・・
散策を優先!


野寒布岬に建っている稚内灯台
稚内灯台は、高さ42.7mと全国で第2位、北海道で1位の高さを誇ります。
初点灯 明治33年12月10日
日本の灯台50選にも選ばれています。


続いて日本最北端JR稚内駅へ


日本の鉄道最北端


寂しい感じがしますが、稚内駅は再開発が進んでいます・・・


駅から車で数分の北防波堤ドーム(きたぼうはていどーむ)へ




防波堤ドームとは
大正から昭和の始めにかけての稚内港は、当時高さ5.5Mの北防波堤が作られていましたが、波がいとも簡単に乗り越え乗船客が海に転落するという事故が相次いでいました。
そんな中、ここに通じる道路や鉄道へ波の飛沫がかかるのを防ぐ目的で昭和6年から昭和11年(1936年)までの間,5年の歳月をかけて完成したのが、防波堤の外観としては異色の、ドーム状の形態を取っていることから名付けられた北防波堤ドームです。
高さ132m、長さ424mにわたって続く古代ギリシア建築を彷彿とさせるエンタシス状の柱列群は、斬新で新しい建築物の印象を与える世界的にも珍しい建築物で、設計者は北海道大学を卒業して3年の26歳で、稚内築港事務所に赴任してきた北海道庁の技師であった土谷実。
昭和20年(1945年)終戦により稚泊航路がその役目を終えてからは,稚泊連絡船のシンボルから稚内港、稚内市のシンボルヘとその役目もだんだんと変わっていきました。
半世紀ほどの歳月を経た昭和 53年(1978年)、老朽化の激しくなったドームに全面的な復元工事が施されました。
シンボルとしての旧ドームの面影をそのまま残すように、解体をせず忠実に復元されました。
北防波堤ドーム物語~北防波堤ドームを造った男~






写真撮影をしていて・・・
「ここは日本!?」
と思わせる景色の写真撮影スポットです。

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